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全国民に贈る国語教科書――「齋藤孝の小学国語教科書 全学年・決定版」

国際的な学力テストで、かつて世界トップクラスだった日本の子供の読解力の順位が、過去最低の15位に沈んでいます。
(「PISA2018」の結果より)

読解力、すなわち国語力の低下は、国力の低下にも直結すると、警鐘を鳴らしてこられた齋藤孝先生。こうした喫緊の問題に直面する中で齋藤先生のこれまでの知見を踏まえ、「理想の国語教科書」を通じて国語力の大切さを訴え、死中に活を得ていただきたい、という強い願いのもと、まもなく刊行されるのが、『齋藤孝の小学国語教科書 全学年・決定版』です。

芥川龍之介、夏目漱石、シェイクスピア、ドストエフスキーから、向田邦子、松任谷由実、米津玄師の歌詞まで、「生きていく力になる名文」が一挙集結しています。まさに、全国民に贈る国語教科書です。

昨夏より企画をスタートさせ、費やした制作期間は、まる1年半。いよいよ来年1月中旬に迫った発売に向け、齋藤先生が本書の出版に込めた思いや、国語教育の重要性などについて語っていただいたインタビュー記事を特別にご紹介します。
※『致知』2021年12月号の記事より

国語力の低下は国を地盤沈下させる

私はこの度、致知出版社から『齋藤孝の小学国語教科書』を上梓することになりました。

戦後に失われた音読という尊い習慣に光を当てるなど、私はこれまで三十年近くにわたり独自の視点で教育・文化の再興に微力を尽くしてきました。

この度本書を上梓するのは、コロナ禍という厳しい試練に直面する社会に、自分のこれまでの知見を踏まえた理想の国語教科書を通じて国語力というものの大切さを訴え、死中に活を見出す手がかりを得ていただきたいという願いがあるからです。

人が死中に放り込まれた時、まず何をすべきかといえば、足下を見つめることです。見つめるべき足下とは何でしょうか。

それは「知・情・意・体」、すなわち知性、感情、意志、体であり、この四つのバランスが取れた人間になることで足下をしっかり固めることができます。そしてそういう人が増えることによって、国の足下も盤石になっていくのです。

そのために必要なのが、国語教育だと私は考えます。

以前対談したお茶の水女子大学名誉教授の藤原正彦先生が、ご専門は数学であるにも拘らず「一に国語、二に国語、三四がなくて、五に算数」とおっしゃっていたのが、いまも強く印象に残っています。藤原先生はこの言葉を通じて、人間のすべての基盤が言葉にあることを示唆されています。

ヘレン・ケラーの自伝を読むと、目が見えず、耳も聞こえず、そのため話すこともできなかった彼女が、恩師・サリバン先生の献身的な導きで言葉を獲得したことにより、闇の底に光が射すように世界が開けていく様子が感動的に綴られています。

このことからも、言葉をしっかりと理解し、自分の中にきちんと収め、そして活用していく国語力を養うことは極めて重要であり、未来を担う子供たちがしっかりした国語力を身につけることが、何より日本という国のベースになることが明らかです。

ところが近年、日本の子供の国語力は低下し続けています。

OECD(経済協力開発機構)の国際的な学習到達度調査「PISA2018」では、かつて世界トップクラスだった日本の子供の読解力の順位が、過去最低の十五位に沈んでいます。これに比例して、世界における日本の存在感も低下し続けているように思えてなりません。

読解力とは、いま自分が直面している事態を的確に把握し、それが意味するものを汲み取る力です。したがって、政治やビジネスの現場に読解力の乏しい人がいくら集まっても、お互いの意図を十分理解することができないため
コミュニケーションの質は高まらず、何ら発展的な成果を上げることもできません。死中に活を見出すことなど到底かなわないでしょう。

我が国にとって自然災害は大きな脅威ですが、日本人の国語力の低下はそれに比肩する極めて深刻な脅威であり、国を地盤沈下させる重大な要因となります。このままいまの状況を放置すれば、日本列島がずぶずぶと底なし沼に沈んでいくことになると、私は強く懸念しているのです。

活字の量が大幅に減った国語教科書


ここまで述べてきたように、国語力は、この厳しい世界を生き抜いていくための有力な武器です。そしてこの力は、子供のうちからしっかり身につけておくことがとても重要です。

ところがいまの小学校の国語教科書を見ると、絵や写真が多くなり読みやすくなった半面、活字量が極端に少なくなっていることに愕然とさせられます。

こんな少ない活字量で一年間どうやって授業を持たせるのか、というのが私が最初に受けた率直な印象でした。しかも教科書の厚さは、一年生用も六年生用もほとんど変わりません。子供たちが読むべき活字の量は、学年が上がるにつれて多くなり、六年生は一年生の十倍は読んでいいはずです。

しかし、あまり難しくすると子供たちがついてこられなくなるという過剰な配慮や、各学年に教科書の予算が均等に割り振られていることなどが原因で、いまの形に収まっているようです。

私は、文部科学省の教科書を改善するための委員会に参画していた時にこのことに疑問を呈し、小学校の国語教科書をいまの倍の厚さにすることを提言しました。

この度『小学国語教科書』を上梓するのは、その提言が受け入れられ、現実に反映されるまで待っていられない、という強い危機感もあったからです。

私がもう一つ危惧しているのは、幼児教育において英語を重視する考え方が布していることです。確かに英語力を身につければ、言葉の壁を越えて様々な国の人と交流ができ、その子の将来も大きく広がっていくでしょう。

しかし習得の順番は、やはり何をおいても私たちの母語である日本語こそが第一であるべきです。

まずは私たちが成育する環境の主たる言語、日本語を高いレベルまでキッチリ身につけ、鍛え上げること。それによって初めて自在な思考、自在な表現が可能となり、その人を一生支える武器になるのです。そしてその基礎となるのが、小学校の国語教育なのです。

インド独立の父・ガンディーは、その著書『真の独立への道』で次のように説いています。

「私たちの最上の思想を伝える手段は英語ですし、私たちの国民会議は英語で運営されています。私たちのよい新聞は英語で。もしこのような状態が長期にわたって続くと、後の世代は私たちを軽蔑するでしょうし、私たちの魂に呪いをかける、と私は信じています。あなたは理解しなければならないのですが、英語教育を受け入れて、私たちは国民を奴隷にしたのです」

私たち日本人は、ガンディーが鳴らした警鐘を心に刻み、日本語を軽視する風潮を決してつくってはならないのです。

子供の可能性を信じよう

『齋藤孝の小学国語教科書』には、既にお馴染みの夏目漱石や芥川龍之介、ゲーテやシェイクスピアなど国内外の文豪の名作ばかりでなく、『源氏物語』や『徒然草』など古典の名作から、宮沢賢治や金子みすゞなどの詩歌、
杜甫の『春望』などの漢詩、坂本龍馬が姉に綴った手紙、さらには松任谷由実、米津玄師、宮本浩次(エレファントカシマシ)など、現代人の心を捉えるヒット曲の歌詞まで網羅しています。私が最高だと思う作品を厳選し、余すところなく掲載しているのです。

手に取られた方は、その分厚さに驚かれ、子供には難しいのではないかと感じられる方があるかもしれません。

しかしこれまでの教科書は、子供が難しく感じないようにという、大人の一方的な配慮によって、古典などの硬い読み物が少なくなり、知性の精度が下がり、それに伴い子供の国語力がどんどん低下してしまっています。私たちは、もっと子供たちの可能性を信じるべきではないでしょうか。

国語教科書には、子供たちに文章に親しむきっかけを与えるために、易しさ、親しみやすさという要素ももちろん必要です。しかしその一方で、最高の知性による最高の日本語に触れる機会を与えることも大切だと思うのです。

この分厚く難しい『小学国語教科書』を小学校の六年間で読み切ったという体験は、必ずやその後の人生を歩んでいく自信となり、支えとなる。それがひいては、日本がこの死中に活を見出す力になると私は考えるのです。

文学よりも実用文を重視する国語教育

国語力を向上させていく上で最も効果的な学習は、名文に親しむことです。名文には、それを書いた人物の優れた精神が宿っています。精神という形のないものに、形を与えていくのが言葉です。

そして名文とは、先達の優れた精神を継承し、分かち合うための尊い文化遺産なのです。

例えば、吉田松陰の『留魂録』には、自分の志を受け継いでほしいという門弟たちへの切実なメッセージが綴られています。そこにはまさしく吉田松陰の精神が宿っており、それが言語によって表現されているからこそ、読んだ人々がその精神を受け継ぎ、分かち合うことができるのです。

事実、門弟の高杉晋作たちは松陰の精神を見事に継承し、維新回天の原動力となっていったのです。

また、本居宣長は『源氏物語玉の小櫛』で、『源氏物語』の本質が「もののあはれ」にあり、それは自然や人の営みに触れて発する感動や情感であるという画期的な解釈を打ち立てました。この「もののあはれ」という言葉もまさに私たち日本人に残された尊い精神文化です。

そしてこの言葉を知っているか否かで、その人の精神の豊かさは大きく異なってくるのです。

こうした言葉の一つひとつが、先人からのかけがえのない贈り物であり、これらをしっかり受け取り、次の世代へ継承していくことが、いまを生きる私たちの大切な役割といえます。

そして、その文化遺産を継承していく場が学校であり、継承の媒介となるのが他ならぬ教科書なのです。

例えば、「そんなにプライドばかり高いと、虎になってしまうよ」と言われた時、教科書で中島敦の『山月記』を読んでいれば、その意味するところを理解することができます。

教科書からこうした名文が抜け落ちていくと、私たちが継承するものの質は下がってしまうのです。

ところが来年度から施行される新学習指導要領では、社会に出てからの実用性を重視するという考えから、高校国語の教科書の内容が、文学よりも契約書や解説書などの実用文に重きを置いた内容へシフトしていくことになりそうです。もちろん実用文を正しく理解する能力も大切です。

しかし、実用文ばかり読んでいたのでは、先人の尊い精神を継承することができなくなってしまいます。

文章というものは情報だけで成り立っているものではありません。

何かを説明する文章と、全身全霊で何かを伝えようとする文章は、全く別物といえるでしょう。

先人の尊い精神を宿し、読む人を感化し、奮い立たせる力を備えた名文が、
教科書から失われることは決してあってはならないのです。

私が『にほんごであそぼ』というNHK Eテレの子供番組の総合指導を二十年ほど続けているのも、そうした思いがあるからです。

この番組では、歌舞伎、能、狂言など、日本の伝統芸能の継承者の方々にもご登場いただいて、例えば歌舞伎の「知らざぁ言って聞かせやしょう」などの名ゼリフをふんだんに紹介しています。

こうした伝統的に親しまれてきた言葉は、日本人の琴線を刺激し、口にすると活力が湧き、受け止めた人の中で命になっていきます。

幼い子供たちに、最高の名文を贈り物として届けることで、人生を開く財産になってほしいという願いがあります。

同様に『小学国語教科書』も、たくさんの名文を通じてそこに込められた命を受け止め、精神の糧にしてほしいという切なる願いをもとに上梓したのです。

分かりやすいことばかりが文章のよさではない

名文に宿る先人たちの尊い精神をしっかり取り込み、自分の命としていく上で有効な手段が、かねて提唱してきた音読です。

とりわけ小学生の間は、黙読によって文章の意味を汲み取るばかりでなく、音読することによってその言葉をしっかり咀嚼し、自分の血肉にしていくことが大切だと私は考えます。

死中に活を見出していく上で特に求められる力は、勇気といえるでしょう。

その勇気をどのようにして培うのかといえば、勇気を持った先人の文章を声に出して読むことです。

ここで『小学国語教科書』に紹介した作品の中から、私たちの勇気を奮い立たせてくれる名文をいくつか抜粋しましょう。

森鴎外の『渋江抽斎』には、自宅を訪れた狼藉者に渋江抽斎が囲まれた時、入浴中だった妻の五百が口に短剣をくわえ、手桶に熱湯を持って現れる場面があります。

「五百は僅に腰巻一つ 身に著けたばかりの裸体であった。口には懐剣を銜(くわ)えていた。そして閾際(しきいぎわ)に身を屈めて、縁側に置いた小桶二つを両手に取り上げるところであった。小桶からは湯気が立ち升(のぼ)っている。

 (中略)

 そして沸き返るあがり湯を盛った小桶を、右左の二人の客に投げ附け、銜えていた懐剣を把って鞘を払った。そして床の間を背にして立った一人の客を睨んで、『どろぼう』と一声叫んだ。熱湯を浴びた二人が先に、つかに手を掛けた刀をも抜かずに、座敷から縁側へ、縁側から庭へ逃げた。跡の一人も続いて逃げた」

武家の出身である五百は、平時においても肌身離さず短剣を手元に置き、身の回りにいつ危機が訪れても即座に対処できるようにしていたのです。

『渋江抽斎』は、鴎外が実話にもとづいて綴った作品です。鴎外がこの作品を遺したことで、女性の立場が弱かった江戸時代にも、五百のように決断力、行動力に富んだ勇気ある女性がいたことが後世まで語り継がれることになりました。

私たちはこの作品を読むことで、当時を生きた人間のすごみを知り、これが勇気というものであることを教えられるのです。しかし、こうした価値ある名文も、読まれなくなれば歴史の彼方に埋もれてしまいます。

国語の教科書に掲載されることによって、いつまでも埋もれることなく継承され、人々に勇気を与え続けるのです。

足尾銅山の鉱毒被害を命を懸けて明治天皇に訴えた田中正造の「直訴状」も、心を強く打たれます。

「臣年六十一而シテ老病日ニ迫ル。念フニ余命幾クモナシ。唯万一ノ報効ヲ期シテ敢テ一身ヲ以テ利害ヲ計ラズ。故ニ斧鉞ノ誅ヲ冒シテ以テ聞ス情切ニ事急ニシテ涕泣言フ所ヲ知ラズ。伏テ望ムラクハ聖明矜察ヲ垂レ給ハンコトヲ。臣痛絶呼号ノ至リニ任フルナシ」

(私はすでに六十一歳、病にもかかっており、命もあと僅かしかないでしょう。個人的な利害でこれを申し上げているのではありません。天皇陛下の人と地が汚されているこの事態に、私はむせび泣いております。何卒陛下の聖なるご裁量を仰ぎたく、身は重い刑罰を受けるであろうことを覚悟の上で、 伏してお願い申し上げるものです。この願いを受け止めていただけるなら、 私は感涙で泣き叫ぶに違いありません)

正造がこの直訴状を天皇に手渡すことはかないませんでしたが、彼の行動が新聞で報じられ、大騒ぎになったことで、足尾銅山の公害の実態が広く世間に知れ渡るところとなりました。

おそらく小学生には難解な文章でしょう。しかし、それでも読んでほしいと私は思います。分かりやすいことばかりが文章のよさではありません。そこにどれだけの思い、精神が込められているかが重要であり、そうした文章に少しでも多く触れ、よい感化を受けることが大切なのです。

言葉の力の大きさを実感するために

個人的に大きな勇気を得た作品の一つが、『わがいのち月明に燃ゆ』です。

これは外国語を勉強して世界に羽ばたきたいという夢を学徒出陣で断たれ、若くして散っていった林尹夫という学生の手記です。

「七月十三日
 先日の班長会議で、外国書を読む者への攻撃があった。

 なるほど根拠はある。しかし結局、攻撃者は、そういう慾望がいかに根深く、かつまた人間の本性そのものに基づく要求であるかを知らぬ人間だったことをバクロしたにすぎぬ。

 おれは読むぞ。そんなことでヘコタレルものか」

「学問がしたい」という思いが切々と伝わってきます。私は十代の終わりにこの文章に触れて大変感銘を受け、戦争で亡くなった人たちの遺志を受け継いで、大学に入ったら一所懸命勉強しようと決意を固めました。

私はこの精神の個人史を通じて、学問への志を継承したのです。

『小学国語教科書』には他にも、会津藩出身の陸軍大将・柴五郎が、新政府から朝敵の汚名を着せられた亡き藩の人々の霊前に捧げるために綴った「血涙の辞」や、家族が離散し、貧乏のどん底でも一所懸命生きていく子供たちの姿を綴った『にあんちゃん』など、心を奮い立たされ、生きる勇気を与えてくれる名文を多数紹介しています。

もちろん本書は、小学生だけのものではなく、大人が読んでも十分手応えのある名文を取り揃えています。

もう一度小学校へ入学する心持ちで本書を手に取っていただき、優れた先人たちとの再会を果たしていただきたい。そして、心が奮い立つような感動を
味わっていただくことで、言葉の力の大きさを実感していただきたいと願っています。

名文は、世のため、人のために懸命に闘ってきた先人たちの魂の履歴書です。このかけがえのない文化遺産に親しみ、自分の中にしっかりと吸収し、
その尊い精神を受け継いでいくことによって、直面する困難を乗り越えていく力が確実に養われていくはずです。

私たち一人ひとりが言葉の持つ力を再認識し、国語力を磨き上げていくことによって、この死中に活を見出していけると私は信じています。