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「神戸」①私の生まれ育った街

 JR R駅、三宮駅まで数駅数分で行け大阪駅までは快速を使えば20分ほどで行ける。山と海が近くどちらも子供の足でも意外と簡単にたどり着ける。子供でも歩いてR山に登れるこの地形のせいで小学生の頃は毎年3回山登りが行われた。高学年になる頃には道順を完全に覚えており「うわぁ、まだまだあるやん。ここ頂上に見せかけてちゃうねんよなぁ。だましよな、これ。」などと友達とぼやきながら登っていた。山登りは嫌いではないし、頂上で食べるおにぎりは格別に美味かったがしんどいものはしんどいのだ。
 この地域にはいくつか大学もあり、今や学生街の雰囲気で小洒落た飲食店や美容院が其処彼処に肩を寄せ合い街を賑やかしている。昔の下町的な空気感は薄れ、若者の街に姿を変えている。
 1981年、私が生まれた年だ。当時は今のようなお洒落な街ではなかった。徒歩圏内に商店街が2ヶ所あり、買い物と言えばそのどちらかに祖母と「ゴロゴロ」と呼んでいたショッピングカートを引きながら歩いていった。魚屋さん、漬物屋さん、揚げ物屋さん、惣菜屋さん。小さな店が2メートルほどの通路の両面にひしめき合って店員のおっちゃん、おばちゃんが威勢の良い掛け声でチャキチャキとお客さんをさばいていた。レジ機なんてなくて、天井から紐で吊るされた使い込まれて燻んだ青色のザルにお金が無造作に入れられていて会計は暗算。レシートもない。それでも正確にかつスピーディー。私はそのおばちゃんたちにお金を渡してお釣りをもらうことが大好きだった。何だか少し大人になった気分がして誇らしかったのだと思う。それに、そうして買い物を手伝うと決まって「手伝いして偉いなぁ!また来てや!」と褒めてもらえることがとても嬉しかった。
 特にS商店街は大好きだった。私の大好物のはんぺんにカレー粉で炒めた挽肉がはさまった三角の揚げ物が大好きでそれを作っている揚げ物屋さんがあったからだ。更には商店街を抜けたところにはビニールシートで囲われたカウンター数席の串カツ屋さんがあり、そこのジャガイモが大好きだった。たまに祖母が「食べて帰ろか?」と言ってくれた時はラッキーな日だ!と嬉しくてサービスのキャベツと一緒にもりもり食べた。その店の向かいが銭湯で風呂上がりのおっちゃんが瓶ビール片手に串カツを真っ赤な顔で頬張りながら野球やら競馬やらのテレビを観ていた。子供の私を邪険にすることもなく、ニコニコと「お嬢ちゃん、ようけ食べて帰りや」とたまに話しかけてくれて私はその空間が大好きだった。その隣のたこ焼き屋にもよく行った。
 また我が家の日課で銭湯にも毎日行っていた。家に風呂はあるが家風呂を好まない祖母は毎日銭湯に私と弟を連れて行った。徒歩圏内に4ヶ所銭湯があったが1番のお気に入りはS銭湯だった。1番綺麗で風呂数も多くミストサウナも別料金なして入れたし露天風呂も掛け流し源泉で気持ちよかった。顔見知りのおばちゃんがたまにご馳走してくれるジュースも美味しくて、お気に入りはフルーツミックスだった。当時はまだ瓶に入って紙の丸い蓋をポンッと外す昔ながらの状態で売っていて、何故かその蓋集めが流行っていて番台さんが山のようにためたものをくれることもあった。宝物だった。
 帰り道には老夫婦が営むたこ焼き屋があった。10個200円。安くて美味しかった。「そのうち私もたこ焼き屋やろかな。原価そないかからんやろうし」と祖母はよく言っていた。実際原価がかかるのか否かは分からなかったが「え、うちもほな毎日食べれるやん。夢やんか。えぇやん、やりぃや」などと互いに冗談混じりの小さな夢を語りながら家に帰る何気ない日常をたこ焼き屋の赤い提灯が静かに、そして確かに照らしていた。
 そんな街で私は生まれ育った。

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