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私のおばあちゃんたちの話①

 1年前の今日、こんな記事を書いた。

 今年は、私自身の”おばあちゃんたち”の話を書いてみようと思う。
 ”私のおばあちゃんたち”とは、私の母方の祖母、曾祖母(祖母の母)、そして高祖母(曾祖母の母)、の3人の女性のことである。
 はじめに断っておくと、これは私が子どもの頃から、特に夏休みに母の実家に帰省した際、私の祖母やその妹、弟たちから聞いた話をつなぎ合わせたもので、詳しい事実関係の確認はできていない。
 でもこの”おばあちゃんたち”の物語、私が言うのもなんなのだがとてもドラマチックで面白いのだ。だからずっと書き残しておきたいと思ってきたのだが、「詳しい事実関係を確認してから」と思ってずるずる後回しに……。一番いろいろな話を聞かせてくれた祖母が亡くなってからも、既に10年。ええそうなんですよ、何やってんの私。
 そんなわけで、今現在わかっていることだけだけれどこの機会に書いておく。これは私自身のための覚え書きのようなものだ。

おチョウさんの話。

 まずは高祖母である「おチョウさん」の話から始めよう。私の高祖母だが敬意と親しみをこめて「おチョウさん」と呼ぶ。
 このおチョウさん、後々まで母の地元で語り継がれることになる、実に強い人である。
 彼女が結婚したのは、同じ集落に住む農家の四男坊。      
 当時、農家の三男坊、四男坊は実家を継ぐことができず、かといって財産分与も受けられず、大半が職にあぶれていた。だから国策として、アメリカやブラジルへの移民が政府から奨励されていた。彼女の夫となった忠四郎は、それに真っ先に手を挙げた一人だった。
 そもそも、日本からのアメリカ移民第一号は戊辰戦争で敗れた会津藩士とその家族なのである。会津にほど近い集落にあって、充分にあり得る選択肢だったろう。よく言われているように、「アメリカに渡れば、自分の広大な農園をもつことができる」という触れ込みだった。
 当時8歳だった娘を本家に預け、生活の目処をつけてから呼び寄せると約束して、夫婦で横浜港からアメリカに渡ったのだった。

 渡った先はカリフォルニア・サンディエゴ。忠四郎は庭師として、おチョウさんは通いのハウスメイドとして、現地のアメリカ人家庭で働き始めた。
 おチョウさん、日本にいたときから自他共に認める働き者だが、英語はまったくわからない。そしてアメリカ人の奥さんは当然?東アジアからやってきた英語もわからないおチョウさんに対して差別的だった。理不尽な言動に耐えていたある日、掃除の仕方が悪い、とついにぶたれた。先方は「英語がわからないんだから身体でわからせるしかないだろう」という考えだったらしい。ひどいね。
 で、ぶたれたおチョウさんはどうしたか?後年本人が孫たちに語っていたというのはこうだ。
「……だから持っていた箒を逆さに持ち替えて、殴り返してやった。せいせいしたわ。」
 最終的に相手が「悪かった」ということになり、引き続きその家でも働いたらしい。ね、強いでしょ。

 日系移民の苦労は様々に語られているが、おチョウさんたちも例外ではなく、結局期待していた「広大な農園」を手に入れることはできなかった。しかし、忠四郎の庭師としての腕とおチョウさんのバイタリティで、見事に現地にとけ込んでいった。一年後、約束通り娘を呼び寄せて親子三人での生活が始まる。
(娘9歳、福島の山間から汽車で横浜へ行き、横浜港から移民船に乗り、たくさんの人たちに混じって一人でアメリカに渡ったそうな。彼女の話はまた後で。)
 第二次世界大戦はまだまだ先の話で、多少の差別はもちろんあったもののアメリカ人たちとそれなりにいい関係を築くことができたし、働いた分の賃金をきちんと受け取って、娘を学校に通わせることもできた。同じ日系移民同士の助け合いももちろんあっただろう。

 そうして10年ほどが過ぎた頃、18歳になった娘が「日本に帰りたい」と言ったのを機に帰国。娘がそう言ったから、というだけではなく、周辺の状況から「この暮らしはいつまでも続かない」という何かを察知していたのではないか。永住も考えていたらしいが、帰国がもう数年遅れていたら戻れなかったかもしれない。
 夫婦でこつこつ貯めたお金は当時の日本円にするとかなりのもので、集落に戻った時には注目の的だったようだ。おチョウさんの孫たち曰く、
「アメリカであつらえたドレスを着て帰ってきたんだよ。」
「家の中も洋風でね。ドレスを着て、キセルですぱすぱ煙草を吸ってた。」
昭和40年代になっても信号機と横断歩道がひとつもなかったような、小さ な集落である。当時の人々が目を丸くしていた様子が目に浮かぶようだ。
 忠四郎とおチョウさんの「アメリカに行こう!」という決断は、大正解だったと言えるだろう。しかしその後、財産を預けていた銀行が破綻。アメリカとの戦争も始まり、すべてを失ってしまった。

 それでも、おチョウさんはずっとおチョウさんであり続けた。
「戦争が終わってからはスクーターに乗ってたよ。このあたりでは他に乗ってる人いなかったんじゃないかなあ。」
「気は強いけど働き者でね。歳をとってからも掃除をしたり、鶏を飼って卵を売ったり、ずっと働いていたよ。ヨイヨイになってからも曾孫の子守なんかしてね。そうそう、赤ん坊をおぶっているときに転んだことがあったんだけど、その時は赤ん坊をかばって手を離さなくてね。顔を思い切りぶつけて歯が折れちゃった。でもおかげで赤ん坊は無事だったよ。」
怒ると怖い人だったなあ、と言いながら、私におチョウさんの話をする人たちはいつも懐かしそうに笑っていたのである。

(②に続く)


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