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しずかなあいさつ

とても遠いけれども夢ではない日々を想えば金の砂こぼれたり
『花の渦』


 名前を、アフマドといった。
 私がアラブ首長国連邦のアブダビで、現地の公立小学校の子どもたちに日本語を教えていた時のことである。出会った当時8歳だったその男の子は、学校で私を見つけるといつもまっすぐに歩み寄って来て、何も言わずにすっと右手を差し出した。私は彼に日本語でおはよう、と言いながら、そっとその手を握る。手をはなすと、彼はくるりと身体の向きを変えて歩いて行く。そのまま自分の教室に向かう時もあったし、行く先に他の先生が立っている時もある。彼は、学校の先生たち全員と毎日同じように手を差し出して挨拶をするのだ。


 私たちに比較的なじみのある、欧米の人々のがっしりとした握手よりは少し控えめだが、出会った者同士が言葉を交わしながら互いに手を差し出して握手をするのは、アラブに共通する一般的な挨拶である。家族や親族を含め、関係が近しい者同士では、そこにハグや頬へのキスが加わる。
 アフマドはいわゆる発達障碍を抱えていて、普段からあまり表情が変わらず、言葉を発することも少ない。握手する時に言葉がないのは、そのためであった。初めて会った日、私の目の前で担任の先生に私のことをいろいろと説明された時には、じっと遠くを見つめたまま、一言「ヤバニヤ(日本人)?」と言った。彼は授業の時にも、他の子どもたちのように「おはよう」や「ありがとう」を元気にリピートすることはなかったが、いつも椅子におとなしく座って私の方に顔を向けていたし、学校のなかで私を見つけると必ず歩み寄ってきていつもの挨拶をしてくれた。ある日彼の担任をしている同僚にそのことを話すと、ああ、あの子はあなたのこと大好きなのよ、わかる?と言って微笑んだ。アブダビの小学校で働いた三年間、そんなアフマドと交わされるしずかな挨拶が、私は毎日とても楽しみだった。


 帰国してから、もう八年が経とうとしている。慌ただしい生活のなかで、アブダビの記憶は薄れていく一方だ。けれど、アフマドが毎日私に挨拶するために差し出してくれた、あの華奢ですこしひんやりとした手の優しさは、今もはっきりと覚えている。今では夢のようなあの日々は、決して夢ではなかったのだ。

福島民友新聞「みんゆう随想」 2018年5月15日

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