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ぎんなんのにおい

公孫樹の木に抱かるる広場ぎんなんの臭いのを笑いながら別れき     『桃花水を待つ』

 人間と同じように、樹木にも性格がある。
「種類」ではなく、「性格」。神社などに鬱蒼と茂っている杉の木は、無口でまじめで、何かいたずらをしたら叱られてしまいそうな「性格」。白っぽくてすべすべした樹皮に、いつも大きな葉をひらひらさせているプラタナスは、おおらかで陽気な「性格」。白い花がわあっと咲いた時にはにぎやかだけれど少し恥ずかしがり屋なのは、ちょうどこの季節、小さな葉を真っ赤に染めるドウダンツツジ。
 子どもの頃私が通っていた小学校には、校庭をぐるりと囲むように立派な公孫樹の木が何本も植えられていた。あの公孫樹の木々に囲まれて毎日遊んでいたせいか、私は今でも公孫樹の木は――ことに小学校や公園、街中の広場などに植えられている公孫樹の木は、優しくて子どもが好きな「性格」だ、と思っている。


 この季節になると、公孫樹のあの独特な扇形をした葉の一枚一枚が鮮やかな黄色に色づき、晩秋の青い空を背景にあとからあとから降ってくるようになる。日が傾いて夕陽が差し込むと、黄色の葉はいよいよ輝いてまるで金色だ。降ってくる葉っぱをつかまえようと、木の下で小さな子どもたちがわたしも、ぼくも、と手を伸ばす。葉っぱをつかまえた子が歓声をあげる。やがて子どもたちはつかまえた葉を打ち棄ててサッカーや鬼ごっこを始めるけれど、公孫樹の木はそれでもひらひら、ひらひら黄色い葉を散らし続ける。昔も今も変わらない子どもたちの遊ぶ姿を見下ろしながら、公孫樹の木も楽しそうに笑っている。そう見えるのは、私だけだろうか。


 さて、そんな優しくて子ども好きな公孫樹の木だけれど、唯一の大変な欠点と言えば、やはりあの「ぎんなん」の実の熟したにおいだろう。夢中になって遊んでいるうちにうっかり実を踏んでしまうと一大事だ。慌てて水道まで駆けていって、半べそをかきながら靴の裏を洗う。けれど、つぶれたぎんなんの実がくっついてしまうとなかなかにおいがとれない。早くう、と待っている友だちが呼ぶ。焦って振り返ると、その友だちの向こうに立っている公孫樹の木は、何事もなかったかのように黄色い葉を散らしている。そしてやっぱり、笑っているのだ。

            福島民報「みんゆう随想」 2017年11月17日掲載

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