〈認知言語学ノート#05〉認知言語学ならではの問題

※本稿は、西村義樹・野矢茂樹『言語学の教室』(中公新書、2013年)の内容から、個人的なノートとして引用・要約したものです。

なぜ「雨に降られた」は言えるのに「財布に落ちられた」は言えないのか

 ふつう、受動態というのは「太郎は花子に叱られた」であれば「花子は太郎を叱った」という直接対応する能動文が存在する。しかし、日本語には、「雨に降られた」や「彼女に泣かれた」といった直接対応する能動文をもたない「間接受身」と呼ばれる表現がある。

 ここで、このような話がある。日本語を学んでいる外国人に、「『雨に降られた』は良いのに『昨日財布に落ちられました』はどうしていけないのか」、と聞かれる。この『財布に落ちられました』の不自然さを、間接受身に対するわれわれの見方や態度と結びつけて説明しようとすると、次のように、①受苦、②諦念、③他者性が関係していると思われる。

・「泣かれた」とか「雨に降られた」にはいかにも嫌だなぁという感じが漂う(①受苦)
・自分ではどうしようもないという諦めの感覚がある(②諦念)

 しかし、これだけでは前述のことは説明しきれない上に、「おならに出られた」や「にきびに出られた」という言い方もおかしい。

・受身にするには③他者性が必要!

 われわれは、間接受身に対して、①受苦、②諦念、③他者性がそろっていることを条件ととらえている。(間接受身は迷惑受身とも呼ばれる)

⇒このように、言葉の問題を言語だけに狭く閉じ込めないで、事柄に対するわれわれの見方や態度と結びつけて考えることが、認知言語学の特徴であるといえる!

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