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自宅で起こった能登半島地震が自分ごとになったとき

令和6年1月1日午後4時10分頃、能登半島地震が発生した。そのとき私は石川県輪島市の自宅にいた。被災地のど真ん中である。しかし、何が起こったか分からず、どこかで傍観している自分がいた。まずは事態を冷静に把握しようと思っていたのかもしれない。

発災時の状況

通行できなくなった道路

発災当時、私は2階の寝室で小学校5年生で発達障害の息子とベッドの上で寝転がっていた。そこに地震が起こる。私をはじめ能登の人間は地震慣れしている。平成19年の能登半島地震、令和5年に隣の珠洲市で起こった地震、大小含めればかなりの経験だ。水道管の凍結による断水の経験もあり、災害には慣れていると思っていた。

最初の揺れのときは、大丈夫いつも地震だと高をくくっていた。下の階にいた妻と難聴で中二の娘にLINEで大丈夫か聞く余裕があった。しかし、数分後に起こった2回目は違う。これまで経験したことのない大きな揺れだ。こんな縦揺れは経験したことが無い。揺れが収まるまで息子に布団をかぶせて動かないように言い、下の階へ行こうとする。階段を降りるのは怖かったが、壊れてはいないようだ。

下へ行くと、妻と娘の声がした。飼っている犬が逃げ出したという。とにかく2人にすぐに家の外へ出るように促し、自分は2階の息子を連れ出す。家の外にはたくさんの人が居た。道路も割れている。ただ事ではない。それにしても人が多い。彼らが話している内容を聞けば、大津波警報が出ているという。それで高台に逃げてきているのか。どんどん人は増えている。着のみ着のまま逃げているので、着るものをください、毛布をください、トイレを貸してくださいと言われる。妻は水は出ないのにトイレを貸し、欲しいというものはすべて与えていた。

おびえながら犬を心配する娘に、私は「車の中にいなさい」と言うが、怖いから入りたくないという。いや、車が一番安全なんだと説得しても、どうしても入いらない。そのうち、逃げ出した犬を抱えた少年がやってきた。正月に帰郷していた親戚の一行だ。互いの無事を安堵しつつ、さらに高台を目指す。自宅は十分標高が高い場所なのだが、度重なる余震にアスファルトの道路は安心出来ず、土の見える空き地へ人が集まっていく。車で避難してきた人は往来できず困っていた。

避難所となった小学校の体育館

近くの小さな集会場はすでにいっぱいで、少し離れた小学校へ避難する。そこにも人は集まっていたが、なんとか入れた。体育館のマットを引いて座っている人も居る。幸い電気はあるようだが、水は出ない。私のスマートフォンは格安キャリアのためか通信状態が悪く、緊急地震速報すら来ない。やはり大手キャリアにすべきだったか。

とにもかくにも、体育館で夜を明かした。ただし、我が家は犬連れである。中に入れないので、車に入れて一緒に過ごすことにする。1月の能登は寒い。積雪はなかったが、私と娘と犬と、毛布だけで凍えながら一晩過ごした。軽四自動車なのでエンジンをかけっぱなしでは音がうるさく、周りに迷惑をかけてしまう。エンジンを切っていても毛布を掛けて寄り添っていれば少しは暖かい。ほかの家族や親戚は暖房のない体育館で夜を過ごした。

避難後数日は、救援物資も何もない。電気が通じていたのが救いだった。体育館ではみんなが順番を待って充電している。私もほぼ通信できない携帯を充電していた。持っていないと不安なのである。

地震と津波だけではない

燃えさかる炎

そのとき、もっと大きな事態が起こっていた。隣町が燃えていたのである。避難所からも見えるくらいの大火事だ。しかし、火の収まる気配は一向にない。避難所のみんなが呆然とながめていた。なにもできることはない。現場へ野次馬で行っても邪魔になるだけだ。冷たいようだが、いまは助かっている命を減らさないように守ることしかできない。人ひとりの命は地球よりも重いというが、今はある命を減らさないことの方が大事だ。それ以外になにもできることはない。

被災地にいても被災地のことはわからなかった。離れた地でニュースを見ていた人の方がよく分かるだろう。わたしは時々つながるYahoo!ニュースやX(旧Twitter)で情報を集めようとしていた。断片的なので大したことはわからない。とにかく、今晩を乗り切らないと。

ここまで読んでくれた方は、地震が充分自分事になっていると思うかもしれない。しかしくり返すが、私は冷静だったのである。200軒を全焼させる大火事があってでもある。

震災が自分ごとになったきっかけ

火葬場にて

本当に自分のことになったのは、息子の寝言と叔母の死である。身内に何か起こってはじめて自分のこととして感じられるとは、冷たく情けないが事実だ。人は情報量が多いと感情をシャットアウトするのかもしれない。避難所には妻と娘、息子、犬。遊びに来ていた義理の夫妻一家。現場には居ないが、市内の施設に預けている高齢の母と叔母もいる。心配すれば切りがない。道路が寸断されていては、それぞれが生き延びて欲しいと思うしかない。しかし、そうも言ってられないこともある。

発災後すぐ体育館を出て、私たち家族は親戚の家に身を寄せて雑魚寝していた。私のいた部屋には娘と息子がいた。余震はしょっちゅう起こり、常に揺れている。寝ているときも余震で目が覚める。ある夜、息子が寝入っているときに大きな余震があった。息子は寝言で「お父さん!お母さん!」と呼んだ。被災しても元気そうにしていた息子だが、やはり不安が重なっていたのだ。なんとなく子どもは強いと思っていたのが幻想だと知った。ああ、この子は守らなければ!地震から一緒に生き延びることを誓った。

もうひとつのきっかけは叔母の死である。発災直後に肺炎になり預けていた施設から病院を転々とし、大学病院に入院した翌日に亡くなった。これには涙がでた。泣いたのは震災があってからはじめてである。どんなにこころ細かっただろうか。何かできることはなかっただろうか。このときの心境はnoteに書いている。

いまでも心を離れない

まだ火災現場に行けない

被災地のまんなかで、震災が自分事とではないなんてあり得ないと思われるかもしれない。しかし、感情をシャットアウトする中では、親族に関する具体的な出来事が起こらないと涙は出なかった。余談だが、孤立集落にあったグループホームにいた母は広域避難できたことが後日わかっている。

一ヶ月たったいまでも、住む場所を確保するだけで毎日が過ぎていく。忙殺されながらも、後悔と無念・決意はいつも抱えている。まだ、被害がとくに大きかった場所には足が向いていない。行かないととは思っているのだが。

追記

2月15日に大規模火災の現場に行きました。


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