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芸術と非適正の隔り


芸術という言葉は,利用する媒体や作品の形態によって伝統的に分類される数多くの表現様式の一つを示すこともある。したがって,絵画,彫刻,映画,音楽,舞踊,文学をはじめとする多くの審美的な表現様式をそれぞれ芸術と呼ぶことも,全体として芸術と呼ぶこともできる。これは一方では自然の被造物と,他方では技術や知識による産物と異なる。自然における創造は自発的であり,また技術や知識による創造は概念的であるのに対し,芸術はいわば直観的である。芸術の根源,すなわち芸術創造の根源には諸説があり,たとえば想像力,遊戯衝動,模倣衝動,表出衝動などさまざまに分類されている。

上記の275文字は、芸術を表す言葉たちです。

最近、noteアプリの中で、削除記事に対する投稿を読むのですが、これは答えが出ません。
一糸纏わぬ裸の人間は、「芸術」と「見せてはならないもの」の両方を指すからです。
小学生のとき、保健の授業で、男のひとと女のひとのうすら笑いをしたイラストの配布物を見て、ギョッとしました。

体の違い、女の子の生理、男の子の興味があること、赤ちゃんが産まれてくる行為の話し。

生徒たちは、戸惑った表情をする者とおどけて笑う者、さまざまな反応があって、先生はイラストの配布物のような作り笑いをしながら、真面目に解説するのです。

「これは、覚えておかなければなりません」という授業が性的な内容だったので、複雑な気持ちで聞いていました。

国によっては、裸で暮らす民族がいたり、脇毛を剃らない文化があったり、多様性とひとくくりにしたら楽ですが、犯罪に当たるかどうかなんて話になると、簡単な線引きはできません。

例えば、有識者と呼ばれる人物が妖艶な姿をした写真を見たら、どうでしょう。

「あれ、どうしたのかな。きっと合成写真でも作られたんだろう。首の辺りに違和感があるかもしれない」
とその写真を鵜呑みにはしない人がいるかもしれません。

逆にセクシー俳優が半裸の状態で写真を撮っていたら、「なんだ、布(服や下着)で隠してるのか」という反応になるかもしれません。

そのヒトが持つイメージで(仕事に対する品性も含めて)私たちは対等なジャッジが出来ないのでしょう。

noteアプリを利用している人は、書きもののプロではない人が多いと思われます。

中には出版業に携わっている人もいらっしゃいます。
私はすべての人が、正しい文章を書いているとも、素晴らしい作品を書くとも思っていません。
それは他のnoterさんが私の文章に疑問を持つのと一緒です。

私の文章は説明不足なところがあると思います。でも、コメントがないから、まぁいいか、と思って、そのままにしています。

ファンとして「この作品は読んで同意する部分がある」というおおまかな感情でスキをつけます。

審美眼は、千差万別。

芸術と思っても、
やはり、私はピカソの作品を家に飾りたくないし、無名でも好きな絵を愛でます。
(ピカソのファンの方、ごめんなさい)

グレーな部分があるから、人間は生かされている、ということもあります。

正義を追い求めるのは、それを許された人に任せるしかないのです。




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