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関連性とか

          (約800字)

ひとを大切にしたいとか、言葉に気をつけるとか、耳障りのよい言葉を書きながら、
文章を綴っているときは「書きたいこと」に
注視して、うっかりして配慮が欠けてしまう。


この文章の冒頭の描写は、会社で起きた出来事を書いた。

本日、ぼんやりしながら帰省の支度をして、
正午過ぎに気が付いた。

バタバタと実家に帰る用意をして、実家の近所のおばあちゃんから新鮮な野菜をいただき、
用事を済ませた。

昨日は仕事で遅くに帰宅したが、午後の仕事中にオフィスの外で大きなクラッシュ音が聞こえた。

オフィスは高層階で、窓は開かない。

だから、空調は常に温度コントロールされていて、24時間ブラインドが閉まった状態で、
外の景色は見られない。
暗くなったことがかろうじて分かるも、窓の外の様子が見えない。

それで、

 「 ガラス一枚 隔ててしまえば

  大音量のエンジン音も 耳をつんざく

  サイレンも (以下略) 」

という文章の書き出しになった。

先日、他のクリエイターさんが交通事故の記事を書いていたのを思い出した。

その記事に悲しい気持ちになったのに、今日
配信した言葉がその事故と重なっているように思えた。

考えすぎと言われればそれまでだが、
やはりデリカシーに欠ける。
九死に一生を得た交通事故だったはずで。

遅いお昼ご飯を食べて、ようやくこの文章を書くことになり、若干、心に影が落ちた気分だ。 

ガラス一枚 隔てたオフィスで働いていて
外の景色が見えず、外界は遮断されて、
音だけで起きた瞬間を想像した‥‥それだけの描写だった。

申し訳ない気持ちになった。

何も嫌がらせとか、中傷ではない。

おそらく、そのクリエイターさんは気分は良くなくても、私を責めることはないけれど。

1日に6万件以上のnoteの配信記事があり、
全く違う記事が出来上がる方が奇跡だが、
こういう積み重ねが、人の気持ちに亀裂を
作っていく気がした。

意識下で、そんな酷いことを冷淡に考える
知恵はない。

間の悪さと、言葉を軽々しく発することの慣れみたいなものに肝を冷やす。

いい訳と言われても、書かなければ気が済まなかった。


柿がなっていた


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