主体的幸福感と「選択」について思うこと

みなさん、こんにちは。
ちばこです。

いきなりなんですが、みなさんは
『自分の人生を自分で選択して生きている』という感覚を持って毎日を送っていらっしゃいますか??

私は…日常では中々意識することがありません(笑)
しかし、朝起きて、ご飯を食べて、お散歩して、仕事をして、家事をして、友達とあって…普段の何気ない日常は、小さな小さな自己決定の連続です。
起きるか二度寝するか、ご飯を食べるか食べないか
今日1日をどう過ごすのか、誰と会って何を話すのか
意識はしていませんけど、たくさんの選択肢の中から自分で決めて行動しています。

介護の仕事をする上で、これはしばしば議論にあがります。
主体的幸福感と自己決定は相関する、という研究結果を耳にした方も少なくはないでしょう。

「自己決定」「選択の自由」を尊重すること。
食事に選択肢はありますか?
メニューを選ぶ。おかわりをする。好きな時間に食べる。
余暇の過ごし方に選択肢はありますか?
レクリエーションに参加する。本を読む。ラジオを聞く。散歩に出る。
排泄はトイレに行く選択肢を意図的に無くしてはいませんか?
おしゃれする自由はありますか?
時にはちょっと夜更かししたり、お酒を飲んだり…

そんな日常にある選択の自由を、介護が必要になっても提示されていること。
尊重されていること。
これはとても大切なことのように思います。
そして、大切にしようと努力している介護職の方が世の中にはたくさんいます。

もちろん、言葉尻だけを捉えた自己決定の尊重では意味がありません。
ご飯を食べたくない、と言ったから食事を途中でおしまいにした。が続けば、あっという間に低栄養になってしまいますし、
糖尿病の方に、甘いものが好きだというから甘いものを好きなだけ食べてもらった、では病状の悪化、下肢切断や視力の低下なんかを起こしてしまうことだってあります。

「本当にそれでいいの?」と関わりの中で情報を収集あるいは提供し、ニーズを見極める。
本当に必要なのは「どうしたい?」「どうする?」と話し合い、選択肢を広げ相談し合う、そんな時間なのかなと思います。

「おい、寿司を出せ!」っておこる男性に、
「すみません、今はお寿司がないので私が握ったおにぎりでいい?」とご飯を塩むすびにして出したら、「お前下手くそだなぁ」と笑って食べてくれました。
願いは叶えられなかったけど、なんだか嬉しそうだった。
後日、寿司を買いに行けて出したら「食べたくない」って言われました。
選択は時に刹那的です(笑)

時々「ご利用者様の希望を叶えられなくて…」とすごく落ち込んだり、自分を責める方がいます。しかし、自分を責めることではないのかなあと思います。
その時の、身体能力や病状、環境や経済状況、さまざまな要因で叶えられないことは多々あります。私たちの日常だってそうです。

あるご高齢の女性がご自身の人生について語ってくれました。
「昔はね、嫁ぎ先も自分では決められなかった。でもね、この人と一緒にどんなことも楽しんでいこうと思って生きてきたのよ。いろんなことがあったけど、まあ、いい人生だったわね。」

生き方を決めている方の言葉は、とても重みがありました。

人生に悩んだ時には、こう言われました。
「たくさんのアドバイスをしてくれる人がいるかもしれない。でも、最後に決めるのは自分自身だよ。選んだ結果、何があっても人のせいにしてはいけないよ」
時々思い出しては、自戒しています。

数々の選択の先に、今の人生があります。
自分自身も。ご利用者様も。
選択のもとには、その人の価値観や生き方が隠れています。
一緒に選択肢を考えながら、その価値観や生き方に触れることができたら、なんだか嬉しいなあ。そんなふうに思います。

あたりまえの事だけど日常の中では忘れてしまいがちだから、
時々立ち止まって考えよう。

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