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『十牛図』を見て思うこと――現代の中で真の自己を見つけるためには

みなさん、こんにちは。牛ラボマガジン編集部の西田です。

牛と人はこれまでどう付き合ってきたのでしょうか。家畜として人間の生活を支えてきた牛、そして牛に助けられ続けてきた人間、その古い付き合いの一端を、古来から伝わる禅の図譜に垣間見ることができます。

今回は、千年近く前から伝わる、牛と人が織りなす悟りの入り口『十牛図』をご紹介します。

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『十牛図』とは

『十牛図』とは、悟りに至るまでの道を牛と牧人の関係で表したものです。牧人が牛を追って、得て、家路につく様子が描かれた十枚の図で構成され、牛は真の自分を表し、牧人はそれを得ようとしている自分を表しています。
「牛=真の自己」を見失っていることに気づいた牧人が、その足跡を見つけ、捕まえて、飼い慣らし、その牛に乗って家に帰り、その後、牛を捕まえたことも、牛のことも自分のことも忘れ、すべてが自然に還ったことを認識し、そして今度は、大衆の中に戻って人々を救う立場に立つという、禅の思想に基づいた悟りのストーリーです。

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「十牛図・尋牛」(伝・周文筆、相国寺蔵)

そもそもの起こりは明確ではありませんが、現在広く親しまれているものは中国・北宋代の臨済宗の僧であった廓庵(かくあん)、あるいは、その弟子の慈遠(じおん)によるものです。
自らの悟りのプロセスを弟子たちのために書き表したもので、十枚の図と文章で構成されています。十枚の図は、一見わかりやすくシンプルな禅の図解にも見えますが、真の自己を得る過程への深い理解と思考が落とし込まれています。

十牛図は単に悟りのプロセスを例えた物語ではなく、真の自己に対する認識がどのように変わっていくかを身体の感覚を通じて表しています。
手がかりのまったくない自然のなかで牛を探している無謀さ、足跡を見つけることができた喜び、ついに牛を探しあてた感動、手綱一本で牛を扱うときに手に伝わってくる重さ、牛にまたがった時に背から伝わる温かみ。そういった身体的な経験と、それに紐づいた感動が一気に呼び起こされる十牛図。重さや温度を伴った身体的な経験があるからこそ、それが精神的な世界へと移行したときに、深い奥行きを持って広がっていきます。
十牛図がただの例え話の説法でない点はここにあります。捉えづらい心の中の感覚を実質的な経験である身体的な感覚に置き換えることが、真の自己を認知することにつながるのです。

『十牛図』はなぜ「牛」だったのか

では、なぜ十牛図は牛だったのでしょうか。
ひとつは、仏教の祖であるインドにおいて、牛が聖獣として扱われていることによるものでしょう。しかし、もうひとつ重要な意味として、農耕⺠族である中国人にとって牛という動物が身近な存在であったことが考えられます。古代の中国の人々は、牛に日常的に触れることで、牛がどんな動物であるかを知っていたのだと思います。
牛は人間よりも身体が大きく、力も強い動物です。しかし一方で、人間に近いところで、古くから人間の生活を支えてきた動物でもあります。牛という動物は、人間の近くで生きるもっとも大きな部類の動物なのです。
そんな牛は、思い通りに扱えなければ命の危険すら生じかねません。自分の命すら脅かす重さと力を、その手の中に握り込む。その行為がいかに身体的な経験として豊かなものかであるか、牛の重さや力を通じて、人は牛の圧倒的な力を感じていたのかもしれません。

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「十牛図・得牛」(伝・周文筆、相国寺蔵)

現代を生きている私たちには、そういった重さや力を感じる機会があまりありません。また、都市生活を送る中で、命の危険を感じる場面に立ち合うこともまずありません。車とぶつかりかける、橋の上で風に煽られる、そういう場面にときどき出くわすことがあっても、危険という感覚は瞬間的で、たちどころに去っていってしまいます。しかし、真の自己を見つけるためには、重さや力といったものを側に置き、自分の中の深いところにある身体的な感覚を取り戻さなければいけないのかもしれません。

私たちはもしかすると、十牛図が成立した千年近く前の人々よりずっと自己が散り散りになっているかもしれません。家庭も含めいくつものコミュニティに属し、高性能な機械が身体の役割を肩代わりしています。自己をつくる他人との関わりも、一個の個体であるはずの身体も、断片的な部分として分裂してしまいました。感動する精神、身体的な感覚、そしてどこかにあるはずの真の自己がバラバラになって漂流してしまっているのです。

意識は身体的な運動と深く結びついています。それはつまり、心が動いた感動や、実際に体感したことなど、身体的な経験のことです。これらの材料がなくなれば、人は自己を捉える力を失ってしまうのではないでしょうか。自己の意識を形作るのは、身体的な感覚がつくる実質的な経験だと思うのです。

『十牛図』を見て思うこと

私たちが日々受け取る刺激の中で、どれほどのものが経験として蓄積されているのでしょうか。刺激が身体をメディアとして蓄積していくからには、その身体がいかに繊細にその情報を受け取れるかが重要です。
身体が受け取ることのできる情報は多岐にわたります。光、音、匂い、手触り、味、温度、また、筋肉を刺激することで重さや力を情報として取り込むこともできます。それらはその時の感情と一緒に、自己の中に経験として蓄積されます。しかし、情報化社会の中でやりとりされる情報のほとんどは、視覚からしか受け取ることができません。そして私たちはあまりに多くの時間を、視覚から情報を取り込むことに費やしています。触れることも嗅ぐこともできない膨大なデータは、経験としてはあまりに脆弱です。スマホを眺めている間に、経験として得られたかもしれない多くの情報を取りこぼしてしまっているような気がするのです。

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「十牛図・人牛倶忘」(伝・周文筆、相国寺蔵)

何もかも自分たちでしなければならなかった千年前に戻ることはできません。千年前の人々が日常の中で得ていた力強い情報や経験を、今まったく同じように得ることは難しいかもしれません。ですが、牧人が牛を思い出したように、牛から命を実感したように、何かをきっかけに、真の自己を見つけるためのヒントが見つかるかもしれません。

現代社会の中で、情報化社会の中で、分断や分裂が進む中で、スマホを見ながらも、身体を動かし、真の自己とは何か、牛とともに考え続けていきたいと思います。

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参考資料
・上田 閑照, 柳田 聖山、『十牛図―自己の現象学』、ちくま学芸文庫(1992).
・『十牛図』、ウィキペディア日本語版(2020年6月13日 06:30 UTC).

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(執筆:西田佳音、編集:山本文弥)