8月。イタリアへ。
世の中は8月半ばを過ぎたらしい。
朝起きて、おはようを言って、顔を洗って、歯を磨き。
食事を作り、朝食をいただき、家族を見送って、軽く掃除して。
それでもまだ朝の7時くらい。
一日は、これから。
まだ始まったばかりで。
「ここから、なんでもできるなぁ。」
静かになった自宅の居間で、犬とソファに寝そべって、ニマニマしながら、自由を味わう。
そんな日常が尊い。
「大きな地震が来るかも知れない」という。
いつ来てもおかしくないという。
そうなのかもね、と思う。
「生きていると、自分の意思で動くものと
自分の意思とは関係ない力で動くものと
両方に遭遇する。」
そんなのは、当たり前のことだ。
23年前の9月11日。
初めて行ったニューヨーク。
到着した次の日の朝に、川をひとつ挟んで向かいにあったツインタワーが、崩れてなくなった。
目と鼻の先で、ほんとうにたくさんの方が一度に亡くなった。
その3年後の、同日。
2004年9月11日。
結婚も妊娠も望んでいなかった私に、長女が生まれた。
自分の意思を、一体どこに挟めただろうか、と思う。
ほんとうは少しは、挟まっていたりするんだろうか。
長女は来月、二十歳になる。
「余命半年なら、何をしたい?」
そんな問いかけを、一昨日、友人がSNSでしていた。
実は3年ほど前に、
【自分の深いところからの願い】
をどうしても見つけたくて
「余命3ヶ月なら、どうしたい?」
そんな質問を、自分にしていた。
(その時自分に問うたのは、半年ではなく、もっと切羽詰まらせたくて、【3ヶ月】だった)
この種の問いは、不思議なもので、
『自分の核に近いところからの答えがでたとき、自動的に涙が溢れ出る』
という仕組みになっているらしい。
その時、温い涙と一緒にボロボロと出てきたのが、
「自然豊かな土地の小さな家で
家族や、時々遊びに来てくれる友達と
好きなだけ喜怒哀楽しながら
安心感の中、静かに豊かに暮らしたい」
だった。
そして実はいま、それが、叶っている。
「願うと叶う」は、本当のことなんだなと、しみじみ思う。
「自分が願うこと、望むことを、
自分が、自分に、許すこと」
これだけがなぜか、ときに難しかったりするのだけど。
改めて、友人の問いかけ
「余命半年なら?」
に、いま答えるとするなら。
会いたい人に会ったり。
行ってみたかった場所に行ったり。
なんてことも、思わなくもないけれど。
それよりも、いま、このどうしようもなく愛おしい日常を。
ますます噛み締めながら、抱きしめながら
最期の時を迎えたいと思った。
実際には余命半年じゃないけれど、ある日突然、自分の意思とは反する大きな力が加わって、この日常が崩れてしまうことがあったとしても。
幸せを山ほど噛み締めた記憶は、きっとその先も、私を支えてくれるんだろうな。
道を示してくれるんだろうな。
そして、たとえ「その先」がなかったとしても。
愛おしい人たちとの思い出を懐かしみながら。
「惜しいなあ」
「もっと味わっていても、良かったんだけどなぁ」
などと思いながら、この生を終えていくんじゃないかなとおもう。
自分ではどうにもできない、大きな力に対して、「備えておこう」と思う。
だけど「守り過ぎないでおこう」と思う。
命が萎縮しないように。のびやかであるように。
いつ終わってもいいように、愛する人たちには全部伝えておこうと思う。惜しみなく与えておこうと思う。
ひとつも後悔が残らないように。
生きている目的は、何か。
知らん。
ただ、生きている以上は、
「味わうこと」
これからもずっと、やめないでいたい。
嬉しいだとか、楽しいだとか、
むかつくだとか、嫌いだとか、
美味しいだとか、心地いいだとか、
逃げたいだとか、クソだなとか。
何でもかんでも、味わってやろうと思っている。
8月の後半に、イタリアに旅立つ。
喫茶店を開いて、もうすぐ10年目になる。
「カフェが好きで、カフェを開いた」
というわけではない店主の私。
(開いた理由は、『自己都合』だ。)
そんな私ですら近年、
「カフェって、いいものなんだな」
「いい文化なんだな」
そう強く思うようになった。
(そう思わせてくれた、ラムピリカさん。
ほんとうに、感謝です。合掌。)
「いい」と思うから。それならばと。
「本場をみにいこう」
と思った。
カフェ文化が生まれた国。
カフェ文化が今も国全土に、日常の必需として浸透している国。
私にとって、初めての国。
イタリア。
あちこちの州を渡り歩いて、カフェ文化にすっぽり、身を置いてこようと思う。
どんな体感が待っているんだろう。
たくさん、深呼吸して、イタリアの空気を少しでも、この身に浸透させてこようと思う。
旅日記。書けたらいいな。
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