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自由という言葉に陶酔して失うもの

「自由」という言葉を聞くと、なんだかぽっかりと穴が開いて大切なものが流れ出しているみたいに感じて虚しくなることがある。

明るい希望の象徴であるかの「自由」という言葉になぜこんな思いを抱くのか?

今回は自由という言葉の中にある絶望について、そして真の自由とはなにかについて思いを馳せようと思う。

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歴史を振り返ると、人類はいつも「自由」を求めてきた。

そして幾度となく「自由」を求めて、時に命がけで戦ってきた。

そんな誰もが求める「自由」とは、一体なんなんだろうか。


私も子どもの頃から「自由」という言葉に不思議な引力を感じ、思い入れがあった。

しかし、大人になった私が一番よく耳にする自由はこんなだった。

『恋人や家族がいると好き勝手できない』

自由が欲しい、もっと自由でいたい

本来なら一番大切な存在であるはずの相手に対して、自由を奪われていると感じている人がこんなにも大勢いるだなんて。

これが絶望でなくて、なんだというんだ⁈

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明らかに束縛されているわけでなくても、最も身近な存在が足枷となり、それが自分を不自由にしている、そこから自由になりたいと感じてしまう。

その時、頭の中では「自由=自分らしく生きること」と変換されて、抗いがたい強い欲求に変わる。

そして時に一線を超えて自由を得ることを実行に移し、晴れて自由を手に入れた解放感に浸り、自分らしさを謳歌できることに歓喜するわけだ。

しかしたとえ不自由の種を排除しても、しばらくするとまた違う何かに縛られている気がして、そこから解放されようとする。

そんないたちごっこはほんとうに虚しい。

自由とは、なにかを排除し続け永遠に満たされない欲求を追いかけ続けることではないだろう。

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この恵まれた国においては、もはや「自由」は自我の欲望を満たすものでしかない。
思い通りにならない人や事柄を排除することが自由だとされている。

けれど、それは自由なんかではない。


自分を制限するものは、外側の誰かや何かではありえない。

自分自身が自分を縛り、自分をがんじがらめにしているのだ。

かといって、自分を解放するために好き勝手にふるまうのも違う。


わたしは、すべてが丸く収まるものを見つけようとする心や、果てしない可能性に自由を見出している。

誰かが悲しんだり、誰かが傷ついたり、犠牲の上に成り立つものは自由ではない。

好き勝手して欲を叶えることは、不自由をなくしていく開拓のようにみえて、実は最も大切な羅針盤を見失う。

人を思いやり、自分を許し大切にすることに目を向けたなら、物理的な不自由に屈することのない、なにものにも縛られることのない心にきっと気づくことができる。

本当の自由も本当の自分も、実はすぐ手が届くところにあると、わたしは信じたい。

ありがとうございます 嬉しいでーす ╰(*´︶`*)╯♡