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ハクモクレン抒情

むせかえるほどにのぼせそうなほどに
街灯にやたらまぶしく照らされた人波
その流れをさかのぼって歩みを早める
こんなときくらいは強いシャチのひれでも欲しい

人混みの中をすり抜ける耳は
浮き立った会話たちのハイライトを拾う
遠くの水音が通奏低音のように
途切れずに近づいてくる

雑踏から取り残された一角に
ほてった頬を冷ます風が吹いて見上げれば
月の光を透かしてふわふわと揺れる
ハクモクレンはまだ終わっていなかった

やわらかな身体をうんとのばして
伸びをする野良猫は春の宵のアコーディオン
大きなあくびをひとつすれば
それはとっておきの洒落たカデンツァに変わる

コンテで描いた樹の黒い枝々が
血管みたいに夜空に張り巡らされる
そのなかには透明な血液が
脈打ちながらきっと流れている

つぼみをおおう銀色のこまやかな和毛は
鼻息ほどの風にも震えて
日増しに暖かくなる春の大気にその羽を開いて
花たちはふるりとこの世にこぼれ出た

昼日中の日溜まりには申し合わせたように
ひとしく日の光の方を向いて咲いた
そこにとどまらなくてはならないという
暗黙のルールを知らなかったせいだ

そしてその日ハクモクレンたちは
ひと群れの白い鳥になって飛び立った
この世にいるはずのない鳥になって
羽音一つ立てずすべて振り払うように

たった一度のくちづけで解ける呪いは
実はそう多くはなくて
十年、二十年、あるいはそれ以上
時が過ぎても気づかないことすらある

それは砂糖瓶の中にたまにできる
小石ほどの砂糖のかたまりみたいに居座る
角砂糖と同じだよ、紅茶に溶かせば済む話だと、
確かにそうなんだけれど

それでも誰かと手を繋ぎたいのは
意外と知らないこの身体の縁から
あふれだす何かがこぼれてしまうのを
一緒に受け止める人が欲しいからだ

一枚の薄い紙で指を切ったときさえ
一瞬おくれて痛む傷口に
小さくともたしかにもう一つの心臓が
脈打ちながら血をあふれさすことを知っている

雑踏から取り残された一角に
ほてった頬を冷ます風が吹いて見上げれば
月の光を透かしてふわふわと揺れる
ハクモクレンはもう終わりそうだ


****


フィナーレに次ぐフィナーレを繰り返し
何食わぬ顔で歩みを止めない季節に
ずっとそこにいたようなふりをして浮かぶ
月の表面のうるおいが一段と増している

ひと群れの白い鳥になって飛び立った
ハクモクレンたちの行き先を思う
それでも誰かと手を繋ぎたいのは
こぼれた気持ちがまだ鳥になれないせいだ

(2017年3月)

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