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記憶とは曖昧で、都合よく書き換えられるもの

最初の記憶

私の一番最初の記憶は2歳のころ。

その当時、両親が家を建てたんですね。
一軒家の注文住宅。

今でいうデザイナー物件でしょうか。
当時の建築デザイナーさんとは今でも付き合いがあるくらいなんです。

ある日、家の内装を見に行った時のこと。

入口のコンクリートがまだ塗りたてで、乾いてなかったために、またいで家に入ったんです。

私は精一杯の大股を開いて、玄関まで飛び越えました。
ぎりぎり足が届いた。
ほんとうにぎりぎり。

ダイニングにはお風呂の釜がおいてありました。

これからお風呂に設置するところだったんです。

母と兄は、リビングにおいてある風呂釜に入りましたが、私の背には高くて、顔は覗けるけど中には入れません。

なので、母に抱っこして入れてもらいました。

それはとても広くて、白くてつやつやで、綺麗でした。

でも、「こんなに高いところにどうやって入ったらいいんだろう」と少し不安になりました。

でも、風呂釜がお風呂に設置されると、洗い場より少し低い位置になっておたので、実際には楽にまたいで入ることが出来ました。

子どもの頃の記憶覚えてる?

子どもの頃の記憶というと、あんまり覚えてないという人も多い中、私は2歳のこの時の記憶が鮮明だったので、よくこの話をしていました。

映像も鮮明に覚えているんです。

でも、大きくなるにつれて少しの疑問がありました。

コンクリートを玄関まで、またいで行ったあの時。

記憶の中では、確かに自分の足でまたいだんです。

でも、小学生になって自分でまたいでみると届かない。中学生になっても、もちろん届かないまま・・・

「あのとき届いたのになんでだろう?」

少しの疑問はあったけれど、特に深く考えてきませんでした。

そして・・・

それに気が付いたのは、自分の子どもが生まれてからでした。

あれは、

あの時いた母が

私を抱っこしてくれていたのだ

と。
なんでこんな簡単な答えに40年ほど気が付かなかったんでしょう。

良く考えてみたら、小学生でも届かない距離を飛び越えられるはずありません。

よく考えなくても、そんなはずありませんが、2歳の私は「私が自分でできた」と思ったんです。

なので、こんな簡単なことに気が付くまで

「自分でできたのにおかしいな」

程度にしか思わなかった。。。

思い込みの力

思い込みってすごいですよね。

きっと、他にも

「自分一人でできたこと」

という思い込みがあって、

親にたくさん助けられてきたんです。


今自分が親になり、子どもと接しているとそう思います。

本人が

「自分でできた!」

と喜んでいるところに

わざわざツッコミまないですもん、私。



これが、私が自分の記憶を疑うようになったきっかけ。

このことから、いろんな価値観が逆転し、それまでは親を恨んでしかいなかったけれど、すべてが感謝に切り替わりました。

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