見出し画像

アリストテレス的化粧

私はある時期美容関係の仕事に携わっていたこともあり、比較的化粧品に詳しいのだけれども、ここ数年いわゆる「デパコス」と呼ばれる百貨店で販売されるコスメと、ドラッグストアで販売されている「プチプラコスメ」と呼ばれるものの間にあるようなコスメがとても元気が良いと感じている。
価格帯も「デパコス」と「プチプラ」の中間にあり、店舗を持たないことも珍しくはなく、美容院や衣料品のお店にセレクト品として置かれていたりするし、ネット通販のみの取り扱いも多い。実際に試すことができないコスメなど売れるわけがないだろう…というこれまでの常識は流行病にによってあっさり覆された。独特のコンセプトや世界観を持って他のコスメブランドと差別化しているブランドが続々と誕生し育ってきている。

先日はとある中間層コスメがインスタライブでメイクの実演会をしていた。過剰に追及されて飽和し切ったこんにちのメイクテクニックを次々に削ぎ落とし、軽やかに単純化し、魅せたいものはあなたの顔のどこなの?と問い、ファッションやヘアを含めた、よりメタな視点からのメイク提案であった。
一番驚いたのはマスカラだった。マスカラをまつ毛の根本から塗らないし、まつ毛を長く見せることにも執着しなかった。日本人が精密に描くアイラインの動画は、海外の視聴者の再生回数を飛躍的に伸ばすお家芸だというのに、アイラインだって綺麗に引かなかった。
化粧品を大胆に足したり引いたりすることを提案していくブランドのコンセプターは、職人ではなく確実にアーティストだった。これまでの日本の美容の主流は職人の世界だったが、これからは従来の手順やお作法を軽やかに無視するものになるのだろう。毛穴を隠しながら丁寧に作り込んだ肌はビューティーではあるけれども保守的でめぐりが悪く、古臭く感じる。
計算された粗を効果的に取り入れることを「抜け感を作る」と表現する美容系メディアが多いが、この抜け感については理解できない人も多いのではないかと思う。ただ時間がなくてファンデーションを顔の隅々まで塗らないことと、抜け感のために頬の三角ゾーンにしかファンデーションを塗らないことの違いがわからないといったように、そこに意図があるかないかを作品から汲み取ることは難しい。
しかし、中間層コスメでメイクされた仕上がりは、東京の顔だし、なんなら表参道を歩いている人々がまとう空気を感じる。
このまま美容雑誌だけ見ていてはいけない。そうした危機感をひしひしと感じてしまうのだった。

メイクアップを差し引いていくムーブは、まだまだメイク業界を牽引しているデパコスに慣れ親しんできた人間には、よほどのストイックさがなければ真似ることはできないだろう。コスメはただ顔に色をつける行為に違いないが、主体のメンタルの状況を非常に顕著に反映する。シミを気にしている人はシミを隠すことに注力せざる得ないように、肌にコスメを足す安心感を知ってしまった人間が、引くことで同じような安心を得ることは難しい。※注1
美しくなりたい男女を私は都会のど真ん中で毎日大量に見てきたが、隠したいものと年齢にはさほどの関連性はないように見えた。むしろ、性格のほうによっぽど関係しているような印象がある。
それを思うと中間層コスメの魅力的な提案は、なかなかの難題なのである。
メイクの基本として、手鏡を頼りにフルメイクをしないという有識者のそこそこ有名な知恵がある。手鏡は小さく顔全体を映さないので、顔のパーツパーツで順に仕上げていくと、全体で見た時に過剰なメイクに仕上がってしまう場合が多い。それを避けるために、自然光の下で大きな鏡を使ってメイクをしましょう。ということで。
中間層メイクをうまく使うためのコツはこれと同じで、自分の顔を俯瞰して、どこを作ってどこを作り込まないかを取捨選択することである。自分の顔の全てが完璧でなくとも、全体で調和が取れていればいいのである。

アリストテレスの「中庸」という言葉をご存じだろうか。
戦場においてあまりに危険を顧みないと「無謀」だとされ、危険を過大評価しすぎて逃げ回れば「臆病」だと言われる。この無謀と臆病の中間の人が「勇敢」であり、アリストテレスはあらゆる事柄のいい塩梅のところ「中庸」を目指すことを勧めた。
中間層コスメによる提案は、中庸の勧めでもあるのかもしれない。


※注1 もちろん、顔に大きなアザがあったり治療の難しい肌荒れを抱える人が肌を隠さざる得ない状況にあることと、年齢を重ねて当然増えてくるシミや肝斑を隠したい人との間に何か線引きをすることは難しいのだけれども、ここでは主に医療的なケアを必要としている人を含んでいない。彼らの問題は彼らのメンタルの問題に起因しない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?