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自分のなかの差別

2024年の目標のひとつは、犬がお腹を見せあられもない姿で寝られるように環境を整える事としていたのだが、既に2月にしてひっくり返っている。
律儀にも生き別れた兄弟に出会ったかのように毎朝飛びついて、私との再会を犬が喜んでくれるのだが、その時にひっくり返って甘えてくるようになった。ほら、お腹を触ってよといわんばかりに。
こうした飼い犬の「へそ天」行為は飼い主の憧れのひとつにあるそうで、例に漏れず私もいいなあ〜と思っていたのだけれど、過剰なへそ天への期待は人間本位で大変気持ちの悪い願いなのだと気がついてしまった。なぜなら、ちょうど我が家に遊びに来た動物好きの友人が、自分に慣れてほしくて6時間ほどの滞在中たえず犬にかまいすぎてしまい、我が家の犬が最後には激しく吠えまくったのち、へとへとになって数日寝っぱなしになってしまったのだった。
私は飼い主として犬を守るべきだったのだが、犬の様子を深く読み解くスキルがなかったため、最初は大人しくからだを触らせていた犬が実はストレスを溜め込んでいたことに翌朝まで気がつけなかった。
本当に、大変申し訳ないことをしてしまった。

これが人間だったら「ねえ、私を好きになってよ!」と、初見の人間に体を触られるなど迷惑を飛び越えて地獄にほかならない。それが犬となると別だと考えてしまっていたことが私の中にあった無意識の種差別である。
寝込むくらいストレスフルになっていた犬が、客を噛まなかったことのほうが奇跡だった。ああもう、本当に私ったら、夕日があったら走り出してしまいたい。
私は数年前からほとんど動物の肉を食べない。あまりストイックなタイプではないけれど、ヴィーガンを念頭に生活しており、それは環境に過剰に負荷がかかることを極力避けたいなど理由はいくつかあるけども、大きな理由としては差別を乗り越えたかったからだった。そんな私であるが、種差別を乗り越えるにはまだまだ至らない。
犬と人間は別の生き物で、人間と共通する部分や違う部分もあり、分からない事も相入れない事もある。しかし、せめて明らかになっている部分だけでも動物に対して極力優しくありたい。なのに、飼い主の気持ち一つで生死も左右される脆弱な存在とだと犬を哀れに思い、だから大切にしようとする過程で、私は犬を人間のひとつ下の階層において考えるようになったのだと思う。そうした考え方は差別に転びやすく、気持ちの発端が悪意でなくても、好意や善意であってすらも、人の視界はそもそも差別に曇りやすいのかもしれない。


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