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どれくらい健康でありたいかは本人が決める

2021年4月19日FB投稿

依存そのものは悪ではない、といいきるのは詭弁だろうか。人は多かれ少なかれ、誰かや何かに依存しながら生きている。そこに孤立が加わったとき、その人が困っているのに助けを求められない状況になったとき、初めてそれは問題化するように思う。

ところで、私は太っている。太るというのは、基本的に摂取カロリーが消費カロリーを上回る状態が続いた結果起こる。

それを防ぐにはどちらかを調整するだけの超絶シンプルな話なのに、人類の永遠のテーマといっても差し支えないくらい苦労している人が多いことは興味深い。

一時期は「水を飲んでも太る…」などとうそぶいていたが、そんなわけはない。きちんと記録をつけてみたら、自覚している食事以外に、つまみぐいをしたり、ながら食べをしたり、無自覚なカロリー摂取を積み重ねていた。フォグイーティングというらしい。

日々のこまめな生活習慣によって、私はこの体型を維持している。猫も杓子も「痩せなきゃいけない」という価値観が世に溢れかえっているが、私自身が「変わろうかしら…」とか思わないかぎり、このこと自体が「問題である」と断定することは難しい。大好きなチョコレートが食べられないくらいなら不健康であるほうをえらぶ、というのもまたその人自身の選択であるし、なにより好きなものがあるというのは圧倒的に人生を豊かにすると思う。

私は変わりたい、というプロセスは、まず現状を否定するところから始まらざるを得ない。

依存にまつわる困難からの回復の難しさは、ここに尽きる。とても注意深く取り組まなければいけない。現状否定が自己否定につながってしまったら、不安が新たな依存を生んでしまうことにもなりかねない。

ときどき、「根性がないから続かない」とか「だらしがないから子どもの養育ができない」など、マインドが習慣を司るような考え方を目にするけれど、実際は逆で、ささいな習慣が置き換わっていくことが、新たなマインドを作っていくようにも思える。

目の前の人を初めから「問題のある人」という切り口で関わることは、相手の力を奪い、「変わりたい」という本人のメッセージではなく「変わらなければあなたは価値がない」という周囲のメッセージからスタートしてしまうことになる。

それぞれの弱さをテーブルに並べて笑いあうような関係のなかから、人間らしいしなやかな強さはつむがれていくのだと思う。

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