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ベリーグッドマンのダイヤモンド。 「努力は決して無駄じゃない」は本当か

 マクドナルドは居心地がいいですね。エアコンが効いていて、電源があって、ワイファイがあって、安いコーヒーがある。近所のマックは昨年に改装されてキレイ。私は本を読む、スマホを触る、パソコンで打つ、の繰り返しで時間を過ごすので、マックにいて不自由がありません。いつまでもいられます。

 で、長時間マックにいるとBGMも気になってきます。気になるのは、ベリーグッドマンなるグループの「ダイヤモンド」という曲。少年野球・学童大会のテーマソングだとか。マックの推しの曲なのでしょうが、揚げ足を取りたくなります。というのも、歌詞が論理的じゃないからです。

 サビの部分を引用します。

「僕らの努力の結晶は
決して無駄じゃないよ
流した汗と涙は
輝くダイヤモンド
「頑張れ!」「負けんな!」
仲間の声が
今日も背中をおしてくれる」

ベリーグッドマン「ダイヤモンド」

 さて、論理的な本を多く出している小野田博一氏は、著書「13歳からの論理的な文章のトレーニング」の中で、次のように述べています。

「結論」と「結論を支えるもの」の2つがある場合に、またそのときにのみ、「論理」が存在します。(論理とは、「結論」と「結論を支えるもの」とをつなぐ無形のものです)。

小野田博一「13歳からの論理的な文章のトレーニング」

 ベリーグッドマンの「ダイヤモンド」の歌詞に論理性はあるでしょうか。引用したサビの部分には、「僕らの努力の結晶は決して無駄じゃないよ」と主張はありますが、この主張を支える理由は見当たりません。こちらに歌詞全体が載っているので見てみましたが、理由となるような言葉は見当たりません。残念ながら、この曲の歌詞に論理性はないようです。

 ここで、「別に論理的じゃなくてもいいじゃないか」と思う人もいるかもしれません。が、論理性がないと、伝わる人にしか伝わらないのです。初めから同じ価値観をもった相手にしか響かない。万人に対して納得させることが出来ないのです。例えば、「アニメの呪術廻戦を見るべきだよ」とだけ言ったとして、これに納得するのは初めから「アニメの呪術廻戦を見るべきだ」と思っている人だけでしょう。「いいや、呪術廻戦なんて見なくてもいいよ」と思っている人の考えを理由なしに覆すことはできません。

 理由を言うことで相手の考えを変えられます。「だって、夏油の闇落ちが見ものだよ」「なぜかって、絵が綺麗だよ」「というのも、ノスタルジアを感じて夏にぴったりだよ」と相手に理由を伝えることで、相手の考えを変える一歩を踏み出せるのです。

 ベリーグッドマンの「「努力の結晶は決して無駄じゃないよ」も、理由がなくては「いいや、努力したって実らなかったら意味ないよ」と思っている人の考えを変えることはできません。私もそうです。マックでこの曲のイントロが流れる度に、「どうしての努力の結晶は決して無駄じゃないんだろうか」と考えます。「果たして本当に、努力の結晶は決して無駄じゃないのだろうか」と。

 どうして努力は無駄じゃないのでしょうか。仮に無駄じゃないとして考えてみましょう。無駄じゃないとは、努力していた「時間」が無駄ではないということでしょうか。例えば少年野球では、小学生の子どもたちが野球の練習のために多くの時間を費やすことになります。もしも野球をやっていなかったとしたら他のことに使えたであろう時間を、わざわざ野球の練習に費やす。この時間は、本当に無駄ではないのでしょうか。どうしてそんなことが言い切れるのか。野球以外にも、子どもたちが時間を費やす先はたくさんあります。他のスポーツ、例えばサッカーやバスケだってあるだろうし。勉強する時間に費やしてもよかったでしょう。算数の計算ドリルをして、計算の基礎力をつけたり。国語の漢字を覚える時間でもよかったですし、英単語を覚える時間でもよかったはずです。野球の練習は数時間に及びます。学童大会の全国大会に出る子どもたちは、かなりの時間を野球練習に費やしていることでしょう。それだけの時間があれば、勉強であれば休憩を取りつつ頭を働かせられたはずです。ゲームでも良かったはずです。マイクラやロブロックスなどでウチの子どもたちは遊んでいますが、それらはシミュレーションゲームとして優秀です。「仮にこうしたらどうなるんだろう」「だったらこっちの方がいいのではないか」という想像から、頭の中で現実を仮想して検証までします。野球に費やして得るものよりも、勉強やゲームに費やして得るものの方が大きいのではないでしょうか。野球に時間を費やして得るであろうハッキリした成果は「プロ野球選手」でしょうが、それを叶え得られるのはごく一部。野球に時間を費やした多くの人は、得るものがないままなのではないでしょうか。そう考えると、学童大会の本戦出場、あるいは野球の技術向上を目指して費やした努力の結晶は、決して無駄じゃないどころか、大いに無駄でさえあります。

 このような、アンチ野球である私のような人間の考えを変えさせるのが、理由なのです。例えば、次のような反論が考えられます。

 勉強やゲームなど、他のことに時間を費やした方がいいという考えは間違っている。なぜなら、大事なのは成果ではなく一生懸命やる経験だからだ。勉強やゲームの方が得るものが大きいというが、誰もそんなものは求めていない。求めているのは、ひたすらに努力した経験だ。努力した経験は、野球以外のものにも応用が効く。後に高校受験などで勉強しなければならない状況になったとき、過去に努力した経験があれば、努力する苦が減るはずだ。「あのときも努力して乗り切ったじゃないか」との思いが努力を支えるのだ。それから、努力した経験が、ピンチから救うことも考えられる。努力した経験は、後から考えれば美しいもの。自分の人生に美しいものがあれば、前向きになれる。落ちぶれるときは「自分はどうせ」という自己否定に陥りやすいが、自分でも美しいものをもっていたという事実があれば、踏みとどまることができる。たとえプロ野球選手などの成果として得るものがなくても、努力した経験がその後の人生に生きる。だから努力は決して無駄ではない。と。

 意見には論理性を持たせましょう。主張には理由をつけましょう。そうすれば、主張+理由で立派な、論理的な意見になります。自分と違う考えの人間を説得するには論理が必要です。主張だけでは考えを変える取っ掛かりがありません。理由が必要なのです。



参考


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