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交通違反者と大剣「ドラゴンころし」。こうして論理性は鍛えられた

 論理最大の敵は感情ですね。「論理学がわかる辞典」なる本を読んでいるのですが、「論点のすり替え」の箇所を読んでいて昔の事を思い出されました。「権威論証」だの「燻製ニシンの虚偽」だの「人身攻撃」だの詭弁の項を読んでいると、どうにも記憶が刺激されて、感情がフツフツと湧いてきます。論理的であろうとして「論理学がわかる事典」を読んでいるのに、目に見えて刺激されるのは感情である、というおかしな話。

交通違反の取締りで論理力を鍛える

 私は昔、警察官をしていたことがあります。得意で精力的にやっていたのは交通違反の取締り。取締りは多くの警察官が苦手です。警察組織への文句の、矢面に立つことになるので。けど私は「もっとも自分らしさを体感できる」と感じて、苦じゃありませんでした。それは私の場合、論理力を上げるための良いハードルだったからです。交通違反の取締りが、私にとっては論理力を叩き上げるための「数えきれない夜」だったのです。

 取締りは論理性を鍛える場でした。いくつかある取締りスタイルの中でも私は、論理性を全面に出して取締りをするスタイルだったからです。
 「いくつかある取締りスタイル」を紹介すると、まず法的根拠に詳しくなるスタイルがあります。道路交通法に詳しくなって、違反者を説得するタイプ。それから根性で、というスタイルもあります。取締りに時間とエネルギーをかけて、数撃ちゃ当たる型のストイックタイプ。下手下手に、という方法で取締りをしていた人もいます。違反者を気分よくさせて「しょうがねーな」言わせて取り締まるタイプ。
 私の取締りスタイルは、論理でもって説得するタイプ。理屈で説得する方法です。なぜこの方法に落ち着いたのかというと、理屈や論理というものを好きになったから。法的根拠に詳しくなるという王道では周りの警察官と同じで面白くないし、ストイックにするのも時間の浪費が無駄に感じるし、下手に出るのも性に合わない。そこで論理です。相手の言葉尻をとらえて追い込む、という方法に普遍を感じたのです。交通違反の取締りだけに終わらない、汎用性の広さを感じたからでした。

 この交通違反の取締りという業務。論理性を高めるにはうってつけです。というのも、説得する敵の強さが高難度に設定されているからです。
 レベルを上げるには、ハードルは高い方がいい。簡単な相手とばかり試合をしていても強くなりません。強者を倒してこそスキルは鍛え上げられるのです。
 交通違反者は、警察官をやっていた私の論理力を上げてくれます。というのも、多くの違反者がなりふり構わず喧嘩腰で迫ってくるからです。誰も反則金を支払いたくないし累積点数なんて欲しくないので、喧嘩腰なのもわかります。けれどそれ以上に彼らは(というか誰も)、論理性で負けたくないのです。
 よく、「人は鏡」なんて言われます。自分の態度が相手に影響を与える、という意味。丁寧に対応すれば相手も柔和になるし、強気に対応すれば相手も鼻息が荒くなる。私の場合、理屈で攻めようとするので相手も理屈で返してくる。論理は私たち人間の根幹を担っています。論理は、誰もが意識しないほど深く思考に根ざしており、その思考のインフラ的気質ゆえに、私たちは論理で相手に負けられないのです。交通違反の取締りで、論理を武器とする私の相手は、私に呼応するように論理のハードルを上げてくれるのでした。

取締りを仮定すると生じる矛盾。交通違反者の詭弁

 交通違反者が良く使ってくるのが論法が、発生論的誤謬です。これを論点のすり替えとコンボで使ってきます。まず「警察官だってさんざん悪いことをしているのだから、そんな警察官に取締りなどされたくない」という発生論的誤謬でこちらの刃をそらし、その後は論点のすり替えで攻撃してくるのです。

 交通取締りをする警察官にはそれぞれ得意な違反があり、私は横断歩行者妨害違反を頻繁に取り締まっていました。この違反は簡単に言えば、「横断歩道で歩行者が待っているのなら歩行者を優先して止まらなければならない」という違反。警察庁でも「横断歩道は歩行者優先です」との見出しをつけて広報しています。ニュースなんかでも、この違反が度々取り沙汰されており、世間の注目度も高い違反です。

 私は取締りの中でこの違反を見つけると、バイクで追いかけて行き、車両が停止したところで運転手に話しかけていました。

運転手「何? 今、急いでるんだけど」
私「歩行者を優先しないと危ないですよ」
運転手「は? どこの話? 一時停止?」
私「違います。横断歩道に歩行者が待っていたら、歩行者を優先しなければならないんです。」
運転手「は? どこの事を言ってんの? 歩行者なんていなかったよ」
私「いました。〇〇小学校の前の直進道路に横断歩道があって、そこに歩行者がいました。20歳くらいの女性、黒いジャンパーを着た。」
運転手「ああ、わかんなかったよ。というか、わかってたけど止まれなかった。あそこで止まってたら急ブレーキになってたよ。後ろから車来てたでしょ? ぶつかられてたよ。事故れって言うの?」
私「いえ、事故れとは言ってないです。横断歩道に歩行者がいたので止まっていただきたかったんです。歩行者が確認できるくらいの速度で走っていただかないと」
運転手「そんなに出てなかったよ。40キロくらいだよ。40キロでスピード違反なの?」
私「速度違反では無いです。歩行者を確認できる速度で走らないとダメだって言ってるんです。速度が十分に落ちていれば周りが見えるんです。運転手さんは周りが見えていなかったんですよね。歩行者の確認が遅れたんですから。周りが見えなかったのであれば、速度が十分に落ちてなかったって事なんですよ。」
運転手「あそう。気をつけるよ」
私「違反になります。今回、累積点数が2点の、反則金が9千円です。」
運転手「違反なの? オレ、免停なるんだけど」
私「違反です。免許証ございます?」
運転手「なんで? 証拠は?」
私「証拠は私の現認です。私は運転手さんが歩行者が横断歩道で待っている前を通過するのを見ました。」
運転手「そんなん、証拠になんないじゃん。認めねーよ。お前ら(警察官)だってさんざん悪ぃことしてるくせに、なんでオレだけ違反なんだよ。」
私「まあ、警察官が悪いことと今回の違反は関係ありませんから」
運転手「関係ねーわけねーだろ。警察官だって悪ぃことしてんじゃねーかよ。盗撮したりよ。初めにお前が謝れよ。」
私「私は謝らないですよ。免許証の提示をお願いします。」
運転手「お前ケンカ売ってんの? お前らだって悪ぃことしてんだろ!? なんで俺だけ違反なんだよ!?」

……とまあ、こんな会話のやり取りなわけです。交通違反の取締りというのは。

 相手は散々にこちら側をあおってきます。見て下さい。このハードルの高さを「関係ねーわけねーだろ」「初めにお前が謝れよ」「お前ケンカ売ってんの?」。この散々にあおって論理を飛散させてくる相手に対して、理屈を駆使し、冷静に論理を見極めなければならない。だから論理力が鍛えられるのです。

 この例の運転手のセリフで、一番のポイントは「お前ら(警察官)だってさんざん悪ぃことしてるくせに、なんでオレだけ違反なんだよ。」でしょう。ここに、相手の意図が明確に、そして意地悪く表れているからです。
 この問いはもちろん、警察官に「自分の違反だけが取り締まりを受ける」説明を求めているのではありません。自分の交通違反が、取り締まりされなくてもいいことを主張しているのです。悪い事をしている警察官がいるのなら、同じように悪い事している運転手がいても良いはずだ。ましてや、悪い事をしている運転手を罰するのが悪いことをしている警察官なのは許せない。この差はなんなのだ。不公平だろう。警察官が取締りをすると仮定する。すると警察官と運転手の間に不公平が生じる。これは公平をタテマエとする社会において矛盾だ。前提が間違っている。虚偽だ。故にお前は俺に対して取締りをしてはいけじゃんいじゃあ! というのが、相手の主張なのです。

A男の「万引きは良くない」。発生論的誤謬の非論理性

 この運転手の主張が、発生論的誤謬です。警察官が悪い事をしていることと、横断歩行者妨害違反をした運転手が取締りをされることは別問題です。ある一定の警察官が悪い事をしているからといって、世の中の運転手が取締りをされないことにはなりません。ある一定の警察官が悪い事をしているからといって、特定の警察官の主張が間違いになるわけでもありません。人と論は別です。その人がどういう人かという人柄と、その人が何を言っているのかという話の内容は、別個に考えなければならないのです。
 例えば普段、●●駅近くのコンビニで万引きを繰り返している40代無職のA男がいたとします。ある日、A男が●●駅近くのコンビニでいつものように万引きしようと来店します。「どのタイミングで弁当を万引きしようか」と店内をウロつき機を伺っていたところ、A男は「近くに立っていたスーツ姿のビジネスマンが、商品棚に陳列されていたスマホ充電器を手に取り、スーツの内ポケットに入れ、精算せずに店外に出る状況」を見ました。A男は追いかけ、このビジネスマンを捕まえます。ビジネスマンは当初、驚いた様子を見せましたが、観念したのかすぐに落ち着き、大人しくなりました。A男はコンビニの店長にビジネスマンが万引きしたことを伝え、110番通報をしてもらいます。まもなく●●駅前交番の警察官がコンビニに現れ、事情聴取が始まりました。ビジネスマンを捕まえたA男は、本件犯行の「目撃者」ということで、警察官の事情聴取の場に一緒にいました。警察官は初め、A男が今回捕まった万引き犯人だと思っていました。というのも●●駅前交番の勤務員はA男を、万引き常習者ということですでに把握していたからです。が今回、A男はまさかの目撃者であり確保者。警察官は、A男ではなくビジネスマンから、犯行の状況や動機を聞くことになりました。この時、警察官に対してビジネスマンがした説明は「スマホの充電が切れかかっていることに気づき、充電器を買おうとコンビニに入った。商品を見たところ、思っていたよりも値段が高かったので盗むことにした」というもの。なんとも自分勝手な言い訳です。それを横で聞いていたA男はビジネスマンに対して説教を垂れます。「万引きは良くないぞ」と。そして、その説教を横で聞いていた警察官は、「お前が言うな」とA男を一括します。

 どうでしょう。この例で言えば、間違っているのはA男を一括した警察官です。この場合、非論理的なのは警察官なのです。「万引きはよくないぞ」というA男の言葉は、間違いではありません。真実です。刑法第235条に「他人の財物を窃取した者は、窃盗の罪とし、10年以下の拘禁刑又は50万円以下の罰金に処する」と書かれており、万引きは窃盗であり、法律違反は良くない行為なので、A男の言う「万引きは良くないぞ」は真実なのです。
 確かに私たちは普段、身の程を知らない者に「お前が言うな」と言いたくなります。もしも金銭にがめつい上司が「少しくらい奢ってくれた方が人間関係が良くなるよ」と言えば「お前が言うな」と言いたくなりますし、普段勉強ばかりしている学生が「勉強ばかりしていても人生うまくいくわけではない」と言えば「お前が言うな」と言いたくなります。けれど、だからと言って「少しくらい奢ってくれた方が人間関係が良くなる」や「勉強ばかりしていても人生うまくいくわけではない」という主張が間違いになるわけではありません。これらの主張は依然として胸を張っていられるのです。

 我々が検討すべきは発話内容の真偽であって、発話者の真偽ではありません。

結論がどのようにして導かれたかということと、結論が正しそうかどうかということを区別しなければなりません。前者は結論の出来方(因果、発生)の問題であり、後者は結論に至る論証の形(構造、論理)の問題だからです。この二つを混同することを、「発生論的誤謬」と言います。

三浦俊彦「論理学がわかる事典」

知的でないし滑稽。違反者はなりふり構っていられない

 というわけで、横断歩行者妨害をした運転手の主張は的を射ていないことになるのです。「お前ら(警察官)だってさんざん悪ぃことしてるくせに、なんでオレだけ違反なんだよ。」という主張は発生論的虚偽を犯しているのですから。

 確かに、運転手のこの主張は的を射ていません。こんな発生論的虚偽を犯した者は「非論理的」の汚名を着せられるでしょう。「知的でない」と思われても仕方ありません。この者は、周りから「滑稽」に見えるにちがいありません。

 しかし、それが何だというのでしょう。というのも、このような者の目的は、論理的に主張をすることではないのです。そうではなく、彼らの目的は違反者として取締りを受けないことなのです。「非論理的」と汚名を着せられようと、「知的でない」と思われようと、「滑稽」に見られようと、彼らはそれでも言い放つのです。「お前ら(警察官)だってさんざん悪ぃことしてるくせに、なんでオレだけ違反なんだよ。」と。

 彼ら(この運転手をはじめ、多くの違反者)が胸を張って非論理的な主張をするのは、この発生論的虚偽が効果的だからです。言われた警察官は、理屈では「間違い」だとわかっていても、快くこの悪口を受け入れられるわけではありません。「なんだとこの野郎。素直に(切符を)切られりゃいいじゃねーか」と内心、穏やかでは無くなります。
 交通違反の取締りをはじめ、警察官の事件捜査という状況は、警察官にとって不利です。というのも、求められている態度が違うのですから。警察官が品行方正でなければならないのに対して、違反者は素行不良であっても構わないのです。警察官は、できるだけ無難に仕事をしたいと考えています。相手と揉めることなく取締りをしたいのが本音。それを妨げることになる可能性があるのが、自分の言葉遣いだということもわかっています。だから言葉遣いを丁寧にし、できるだけ親切に対応する。違反者を逆なでする言動は自分を不利にするだけです。
 それに対して違反者は、素行不良であることが不利に働かない。どれだけ乱暴な言葉遣いをしても咎める者はいない。いくらでも警察官の感情をあおって逆なでできる。違反者は、自分に有利なこの状況を論理的に説明はできなくとも、感覚でわかっています。なので、あおりにあおってくるのです。このように、交通違反の取締りというのは大変、ハードルの高いものなのです。

数えきれない夜が叩き上げた。鍛えられた理屈

 そして、この高いハードルが、私の論理力を高めてくれるのでした。
 相手はあらゆる手を使ってきます。威圧するように語気を強め、そうかと思いきや、挑発するように丁寧な口調も交える(例・道路交通法の何条ですか? 知らないんで教えて下さい。警察官なのに知らないんですか? )。表情を変化させ、感情を逆なでするような顔をしてくる。権威論証、力に訴える議論、論点のすり替え、説明の無限後退、多義性の誤謬、何でもありのバーリトゥードゥ。
 それに対して警察官は、あくまで真摯に対応しなければならない。相手を心配し(例 「あなたが事故を起こさないように言ってるんです」)、社会を気にかけ(例 「取締りをすることで世の中から事故が無くなれば良いと……」)、誠実な態度をアピール(例 「事故が起こらないことが一番ですから」)しなければならない。
 相手が挑発してきているとわかっていても、挑発から逃げず、それらの挑発をすべて甘んじて受け、そして論理でもって切り返す。相手が「何でもあり」なのに対して、警察官の武器はあまりにも限定されすぎています。
 その限定された不利な状況が、論理という私の武器を磨いていくれるのでした。マンガ「ベルセルク」においてガッツは、一振りの大剣「ドラゴンころし」で数々の戦場を渡り歩いてきました。数に物を言わせた大勢の大群も、人外の力を持つ使徒も、すべてドラゴンころしで屠ってきました。使徒を統べるゴッドハンドにすらドラゴンころしで挑みます。だからこそ、「数えきれない夜がオレを叩き上げた」のです。私の戦いは、グリフィスを目指すガッツの足元にも及ばぬ些細な弁駁(いさかい)です。が、それでも人の身で蝕を生き残り、使徒どもとの戦いを潜り抜けたガッツと同じように、苦しい状況の中での戦いが、私の武器(論理)を鍛えてくれました。挑発に惑わされず、霧散されそうな論理を手放さず、戦局(言葉尻)を見極める。攻めに転じられる根拠を聞き分ける。十分に突き通せそうな理由の不備を見つける。「数えきれない夜が、オレを叩き上げた」のでした。

 というわけで、「論理学がわかる辞典」を読んでの思い出話でした。昔、交通違反の取締りを精力的にやっており、それが論理力を鍛えてくれた。交通違反者はなりふり構わず、発生論的虚偽などの詭弁を多用して取締りをされまいとする。そんな違反者に冷静に理屈で対応するため、論理力が育まれたのでした。



参考

神の存在証明に感銘を受けていた身としてはショックな内容が含まれています。

前提1 存在するものには必ず原因がある。
前提2 世界は存在する。
結論 世界の原因が存在する(それを神と呼ぶ)。

この存在証明が攻撃されていました。

世界は存在している。存在するあらゆるものを含んだ全体の名称が「世界」です。ならば、世界そのものが第一原因でなぜいけないのか。神を要請する根拠がどこにあるのか。それ以上原因のない存在として「神」を持ってくるくらいなら、世界そのもので話を済ませててもよかったのでは。

三浦俊彦「論理学がわかる事典」


発生論駅誤謬の非論理性を指摘しておきながら、こちらの本の主張も大好きです。発生論的誤謬は論理的だ、という主張。

しかし、開き直るようだが、論点をすり替えてなぜいけないのか。そもそも、「論点のすり替え」などというネガティヴな言葉を使うから話しがおかしくなるので、「論点の変更」あるいは「論点の移行」とでも言っておけば何の問題もない。要するに、発話内容という論点が、発話行為という論点に変更されただけの話である。

香西秀信「論より詭弁」


人に戻ったグリフィスとガッツの再開のシーンが面白かったです。というのも、グリフィスの態度に震えました。怒り狂うガッツはごもっとも。あれだけの事をされたら誰だって腸煮えくり返る。仲間を失い、生活を壊され、キャスカを取られ。それなのに、あの時と同じ顔と声で、グリフィスは言うんです。「言ったはずだ。オレはオレの国を手に入れると」……って、グリフィスはどんだけ変わらないんだよ!

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