見出し画像

200勝は運、からの、プロの体調管理。そして激励。非論理的な文章とは

 読売新聞の朝刊に非論理的な記事を見つけました。論理的な文章の反面教師として料理してみましょう。

山本昌 スクリュー覚え「219」
 中日一筋で50歳まで現役を続け、歴代16位の通算219勝を積み上げた山本昌さん(58)=写真=に200勝達成の要因と、その難しさについて聞いた。
                           (聞き手 増田剛士)
 たどり着ける人は、自分も含めて運がいい人だと思う。僕は入団4年目まで勝ち星がなかった。5年目に米国留学に送り出してくれた星野仙一監督、そこで変化球を教えてくれたアイク生原さん。節目、節目で人との出会いがあった。
 僕はX脚でがに股という特殊な下半身の持ち主。踏み込んだ時に膝が開いてしまうと速球が出ない。だけど、膝が開くことによって抜くボールはすごく抜ける。(代名詞の)スクリューボールは米国でたまたま覚えたが、すぐにフィットした。
 200勝を意識したのは、チームメートの立浪和義選手が2003年7月5日の巨人戦で2000安打を達成した時(自身は先発で155勝目をマーク)。セレモニーを見て、「いいなあ。ローテーションを守っていけば自分もたどり着けるかな」と思ったのが最初だ。200勝という目標を口に出して言ってくださったのは(04年就任の)落合博満監督。重荷にもなったが糧にもなり、08年に達成できた。
 けがも少なく、小さい頃に教えてもらった投げ方は肩肘に負担がかからなかった。体調管理や体のケア、トレーニングもしっかりやって練習は無遅刻無欠席。プロとして当然のことで、全く苦にならなかった。
 昔は先発同士が雌雄を決するまで投げ合うという時代だったが、分業制の時代になった。七回までしっかり投げることが、勝ち星を重ねることにつながると思う。200勝は重い荷物でしょうが、原動力にもなる。田中君はまだ若い。投げるのが好きなら、ぜひ限界まで行ってほしい。ダルビッシュ君もそうです。石川君にも頑張ってほしいですね。

2023年9月20日 読売新聞

 この記事は読み手泣かせの記事になっています。というのも、論理構成がなっていないからです。ただの気持ちの羅列。脈絡なく思いを並べているだけ。「山本昌」さんの知名度と経歴があるから「そんなものかな」という共感がないでもないのですが、「山本昌」さんの名前がなかったら、とても納得できるものではありません。この記事が、いかに理解しにくい構成になっているかを、3つの理由から説明します。「冒頭の効果を無視」「根拠が1つもない」「結論も無視」の3つです。

1.冒頭の効果を無視

 文章の冒頭をどんな言葉で書き始めるかは重要です。というのも書き初めの言葉によって、読み手はこれから読む内容をイメージするからです。つまり、読むという行為は文字の順を追うことに他ならず、さらに読んだ文字を手がかりにして展開を予想するという人間の癖があるが故に、書き初めの言葉が重要なのです。
 文章とは、文字列を初めから最後まで順に読むから意味を理解できるのであり、文字列を逆から読んだり途中から読んでは理解できません。「隣の家の庭で、大きな犬が吠えた」という文章は、途中にある「えのにわで」「きないぬがほ」などの言葉をピックアップして読んでも意味は通じつ、「たえほがぬいなきおお、でわにのえいのりなと」と逆から読んでも何を書いているのか理解不可能です。文章を理解するには、最初から最後まで順に文字列を追わねばならないのです。
 そして私たちは、読んだ文章や言葉から、これからの展開を予想しながら読みます。例えば、文章を読んでいて「マントヒヒ」という言葉がでてくれば、「サル」「生き物」「動物」「哺乳類」などのワード脳内に連想され、「この後、これらに関する展開があるのだろう」と当たりをつけます。当たりをつけることで内容を理解するための準備がなされ、スムーズに文章が読めるのです。
 文章を理解するには、順に文字列を追って読まねばならず、先に読んだ言葉を手がかりにして、これからの展開を予想しながら読む。だから文章の冒頭は、読み手に理解を促す上で特に重要なのです。記事の冒頭に「野球」とあれば「野球に関する記事だな」と思うし、「ビッグモーター」とあれば「不正受給に関する記事だろう」と脳が予想するのです。

 さて、この記事は最初にタイトルが書かれており
「山本昌 スクリュー覚え「219」」
とあります。このタイトルを読めば、読み手は「山本昌さんが、いかにスクリューを使って219勝を達成したか」という記事を期待するでしょう。けれど、この記事においてスクリューはほとんど触れられていません。「スクリューボールは米国でたまたま覚えたが、すぐにフィットした」と書いてあるだけで、それが200勝を達成する上でどう役に立ったかはノータッチです。タイトルが200勝とスクリューとの関連をほのめかすものであるにも関わらず、スクリューという言葉は一回しか出てこないのです。いきなりの奇襲と見るべきでしょう。

 けれど私たち読み手は、タイトルだけで記事のすべてを判断するわけではありません。確かにタイトルは記事の最初にあり、記事の展開を予想する上での大事な手がかりですが、それがすべてではありません。タイトルには制限があるのですから。「できるだけ短く」「インパクトのある言葉で」などによってタイトルは決められるので、そこだけで記事を予想するにはあまりにも時期早々。もう少し記事を読んでみることにします。
 すると、そのすぐ下に「200勝達成の要因と、その難しさについて聞いた。」と、記事の要約っぽい言葉があります。なんだ、すぐ近くに記事の要約があるではありませんか。この記事が何について書かれたものなのか、これ以上ない指針があったのです。200勝達成の要因と、その難しさについて。なるほど、この記事には山本昌さんの200勝の勝利という結果を引き起こした原因が書かれているとの予想がつきます。何が200勝達成の要因となったのか。それが分かれば、これから200勝を目指している、あるいは将来プロの道に進もうとしている後輩に有益な情報を提供することになります。謙虚に「(200勝の)難しさ」とも書いてありますが、原因が何であるか分かれば、それがいかに難しくとも、200勝を達成するうえでの方向づけにはなるでしょう。さて、その「200勝達成の要因」とは何でしょうか。

 「たどり着ける人は、自分も含めて運がいい人だと思う。」
 なんと200勝達成の要因は一言、「運」。これだけなのです。700文字近くある記事の中で、たった一言だけって……。百歩譲って、同じ段落に書かれている文章が、200勝達成の要因を語る文章だとしましょう。つまり、「5年目に米国留学に送り出してくれた星野仙一監督、そこで変化球を教えてくれたアイク生原さん。節目、節目で人との出会いがあった。」までが、200勝達成の要因に関する文章だとしましょう。この後、星野仙一さんやアイク生原さんが、いかに200勝を達成する上で助けになったのかが書かれるのだろうと予想されます。冒頭の段落に書かれている内容ですから、この後に続く文章はこれを噛み砕いたものだと読み手は予想するでしょう。けれど期待は裏切られます。この後に続く文章に、星野監督もアイク生原さんも出てきません。「出会い」に関してはここで終わり。具体例も根拠もない、まさかの「主張のみ」だったのです。

2.根拠が一つもない

 この記事を読んで気づくこと。それは、根拠が一つも述べられていないことです。
 「(200勝に)たどり着ける人は、自分も含めて運がいい人だ」と思うのであれば、その根拠がほしいところです。というのも、根拠がなければただの感想であって、読み手に「なるほど」と思わせるものがないからです。読み手は「そうか、山本昌さんはそう思っているのか」で終わります。けれど、それでは記事として物足りない。何かしら読み手の利益になるものがあってこそ文章の価値。根拠がほしいところです。例えば「同じ様に、200勝投手の工藤さんも運だと言っていた」とか「野茂さんの200勝達成も運によるものだった」とか。あるいは、「200勝するには実力か運のどちらかが必要であり、これまで実力で200勝達成した人はいない。だから運だ」とか。
 「200勝達成は運がいい人」というだけの根拠が何かしらあるのかと思って読み進めても、それらしいものは一つもありません。「セレモニーを見て……と思った」というのも200勝を意識したきっかけであって、「200勝達成は運がいい人」の根拠ではありません。「体調管理や体のケア」という部分に関しては、はてさて何の話をしていることやら、です。唐突に「プロとして当然のことで、全く苦にならなかった」と書かれても「あれ? 200勝の話じゃなかったっけ?」と疑問がつくばかり。

3.結論も無視

 そしてこの記事の論理性のなさが一番現れているのが結論です。タイトルで「スクリュー覚え」とあり、第一段落で「たどり着けるのは運のいい人」と言い、途中で「意識したきっかけ」や「大量管理や体のケア」を経て、果たしてこの記事はどこにたどり着くのか。たどり着くのはこれです。
「田中君はまだ若い。投げるのが好きなら、ぜひ限界まで行ってほしい。ダルビッシュ君もそうです。石川君にも頑張ってほしいですね。」
 たどり着いた先は、なんと後輩たちへの激励だったのです。これまでの経過がまったく生かされていません。「スクリュー」も「運がいい人」も、「きっかけ」も「体調管理」も何もかも関係なく、まさかの「頑張ってほしい」という景気づけの言葉。なんという薄さでしょう。この記は内容がタイトルや冒頭を裏切っているのみならず、結論も内容を裏切っているものなのです。

 文章の最後に書く結論は、それまで書いてきたことのまとめです。主張を細かく噛み砕いて、読み手に一歩一歩理解を促してきた。階段を登ってきた。その登ってきた階段を振り返ってみることが結論の役割。なぜなら、そうすることでより理解しやすくなるからです。
 文章は要約と具体の往復から成り立ちます。初めに要約として概略を見せ、それから具体例を一つ一つ示していく。最後にもう一度振り返り、要点を復習する。そうすることで読み手の頭に内容がインプットされるのです。
 まず全体を頭に入れなければ、細かい作業は苦になります。「全体を見た中で自分はどの位置にいるのか」という地図がなければ、細かい作業に意味が見いだせなくなります。初めに要約があってこそ、具体例が生きてくるのです。
 逆に要約だけがあっても理解は深まりません。要約だけでは、薄い主張の遠吠えでしかありません。一歩一歩、主張の足場を固めるような細かい記述があってこそ、主張が現実味を帯びます。
 このように文章全体をとおして、たった一つの主張について要約と具体を繰り返すことで統一感が出てきます。主張を色々な角度で眺めるからこそ、その主張について深掘りでき、読み手が納得してくるのです。「言いたいことをただ書いただけで終わり。次の文章ではまったく別のことを述べている」のでは主張が薄く、納得もクソもありません。

4.というわけで……

 というわけで、読売新聞の記事の論理構成がなっていないという内容でした。
・文章を読む際、読み手はタイトルや第一段落から展開を予想するものなのに、冒頭とその後の内容が関連付けられていない。冒頭の効果を無視している。
・主張に根拠がなく、感想の羅列になっている。
・結論も内容と関連がなく、それまでの経過が無駄になっている。結論が内容を無視している。
 だからこの記事は、読み手泣かせでわかりにくいのです。



参考

 「山本昌」さんという権威がなければ読まれない、権威論証に頼った記事。けれど、権利論証は悪いわけではありません。というのも、権威論証は帰納法の1つと考えられるからです。権威論証についてはこの本が面白い。素直にわかりやすいし、王道とは別の角度から論理や誤謬を見られます。

この記事が参加している募集

野球が好き

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?