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精神の爆発

 チューイです。

 小学校の頃、毎週のように怒られているクラスメイトが居た。かつては、「なんでそういうことをするのかな」と思ったりしていた。
そんなことを思っていた僕は、一年に一回、悪行をして、一年分怒られる人だった。(中には「そこまで怒る…?」みたいな話もあった)僕の方がなんでそういうことをするのかな。
 そのまま小学校生時代が突き進み、卒業した。
 そのあと、中学校に進んで、驚いたことがあった。中学の卒業間際、ほとんど喋ることもなく、中1以来の人の話を聞くと、「え?そんな人だったっけ?」と驚くぐらい成長していた。(なんか上から目線だな)
 「小学生のとき、あんだけ無邪気な少年が頭良くなっている!ちゃんと"大人"になっている」と感じた。
 そういう人たちは、小学生の頃、好奇心旺盛でとにかく周りと喧嘩して、笑って、言うならばかなことをしていた。でも、それがよかったんだ!勉強がずっと出来なくて、ずっと質問していた人も居たけど、その人たちは答えに辿り着くまでに相当な量の分解が必要で、その分解が終わってやっと問題が解ける。
 一方の僕は、椅子に座って一人で、頭の中で最近身につけた想像力を使って楽しんでいた。喧嘩をすることは、恐れて、一言喋るだけに相当頭を動かした。今は、それ以上に動かしている気がする。勉強は、「こうすれば、いいんでしょ?」の精神でやっていた。授業を聞いて、とりあえず理解して、テストで大体高い点数を取る人だった。ただ、段階を理解しただけだった。たしかに、「なぜ?」を聞かれるとわからないと思う。だが、彼らなら、今「なぜ?」と聞かれると胸を張って答えられるような気がする。根拠はないけど。それほど、目の前のこの一問を解くということに全力で出せる力(他人の力を含めて)使っていた。
 それが彼らの力だった。それは、一人よりも強力であることに今更気付いた。
 1+1=2という問題に対して、足し算はそういうものであるという単純で終えた僕よりも、「いや、仕組みはわかるんだけど、どういうことなの?」と質問していた彼らの方がよっぽど賢かった。
 僕は、質問することが怖かった。
 「いや~テスト55点だったわ〜」
 「お前!高えじゃねえか!俺40点だぞ!」
 「(笑い)」
 「どこ間違えたの?」
 テストを見せ合う。
 「これ、間違うわけないだろ!」
 「間違うだろ!お前、天才じゃねぇかよ!」
 この会話が、幸せなんだ。
 僕は、
 「(うわ~やっべえ…70点だ…いつもより低い…)」
 と一人テストの紙を徐々にしわをつけながら、間違えたところを直していた。
 そしたら、後ろの席から「あ、お前ここ間違えたの!?」と勉強できる人に言われたりして、「(めんどくせぇ…)」って思いながら、「いや間違えてねえよ」と返答した。
 今となっては素直に「いやー間違えちったわ。予習してないし、休んでたから後でテスト受けたから変な緊張して、ダメだったわ」と返せばよかった。
 そんな恥ずかしさとかで、生きていたら、年に一回とんでもない爆弾が爆発して、すっごい怒られる人が誕生した。
 そして、僕は根本的な原因を見つけることができなかった。
 あの人たちは、きっと感覚的に怒られる理由を見つけていくのだろう。それがなんなのかがわからなくても、見つけていく。そして、喧嘩ではなく、じゃれあいと化していく。または会話で笑い合う。中学生の頃に読んだ、夢の話の文章には、それが漂っていた。頑張っていた。
 しょっちゅう怒られることが、よかったのかな。僕は、仲が悪くなるのが怖くて、何かが起こっても先生に言うことはなかった。
 でも、よくよく考えたら、喧嘩して怒られた人たちはその後もよく喋っていた。仲がいいのかどうかは知らないけど。

 そして僕は、闇に堕ちた。綺麗に悪の道を潜在意識の下で選んでいた。知らぬ間に、手は赤かくなっていったみたいだ。
 自分が傷ついているなら、言ったほうがよかったんだなとつくづく思う。
 意外と自分を守るために、咄嗟にやった行動が、のちに爆弾に火薬を注ぎ込んでいて、ちょっとしたことで爆発するようになる。
 今この手にある爆弾は、いつ無くなるだろうか。きっとその時は自分に好きなものができて、楽しいことをやって、いろんな人と何気ない話を喋っているのだろう。
 ん〜僕は腐って終わる気がする。やっぱり、上で書いているようなことが起きるよりかは、一人で静かにやったことで、「楽しかったなぁ〜!」で終わる気がする。
 もう起き上がる体力がない。とりあえず、自分のためにやってみよう。

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