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喪肢臓探祭【短編小説】

 夏になると三途の川の付近には出店が立ちならぶ。背丈のある薄暗い草っぱらの上、ひそひそと話す声のような川のせせらぎが周囲にひびきわたる中現れるその出店の数はひとつやふたつでない。見目がほとんど同じ店はまるで黄泉の底にまで果てなく続くように、延々と赤い垂れ幕とかがり火を孕んだ提灯を揺らして亡者のおとずれを待っている。そこで売られているのはふわふわとした綿あめやたれの滲みたこおばしいイカ焼き、あまい鈴かすてらや胡椒の効いた肉串の類──などではけしてなく、さまざまな人間のにくだった。

 とはいえ、なにも、それらは食べることを目的に売られているわけではない。にくとはいっても皮を剥いて下処理をし、焼いて塩をまぶしたり味をつけているものではない。地獄でだって食人の文化は忌避される傾向にある。出店が出すのは決まって〝切られてそのまま〟の状態であったり、〝千切れてやや断面がつぶれて〟いたり、山や谷に落ちていたのをそのまま拾って持ってきたかのような見目のにくばかりだ。にくの種類は手や指、ふくらはぎ、眼球、胃、子宮など多種にわたる。……それらはとこ世にやってきた亡者がかつてうつし世で落としてきた、若しくは他者の手や事故によって落とされたおのれの体の一部たちであった。なきがら集めと云う黄泉の使いが一年かけて地上で探し集めたにくを並べ、四肢を喪った亡者がおのれの身体の一部を探すための祭り──『喪肢臓探祭』には毎年多くの亡者が集う。みながみな、奪われたり失くしてしまったりした自分の四肢を、欠落した自分を見つけようと躍起になって店を見て回るのだ。

 五月雨香蓮という若いおんなも、おのれの身体を探しに喪肢臓探祭へ足を運びにやってきた亡者のひとりだった。香蓮は二八歳で黄泉に移ってから今年で五年になる。秋の暮れに死んだから、喪肢臓探祭にやってくるのは此度で四度目のことだった。
 彼女が探しているのはおのれの左手の指で、太ももや腕なんかより小さく、人間がよく落とすにくとしては一番数が多いものだった。出店にもよく出回るし、百も千も在る中で自分のものを探す──自分のにくが目の前にあれば亡者は直感でそれがおのれのものであると察せられるとは云われているものの──のにはややひと苦労する部位だ。ひと息に指と言っても、根元から落とされたものからつめさきだけのものなど幅広く、指だけを扱っている出店にぼうと視線を移しているだけじゃあすぐには見つからない。香蓮は左右に広がる出店道の入りに差し掛かると、首を左右に振りながら亡者がひしめきあう道の先をゆっくりと歩いた。白装束の老若男女が、むくろの姿で自分の身体を探している。みな何か、自分のにくを喪ったたましいなのだと思うと香蓮には不思議だった。四肢が揃っていて一見恵まれたように見える亡者も、実のところそうでないのだ。
 ……そこまでを考えたところで香蓮はふと、この喪肢臓探祭へとともにやってきた自分のとなりを歩く亡者の横顔をちらと見た。冬の枯葉色の髪、気の強そうな吊りぎみのまなこ、この黄泉で出会った友人・日戸豊恵(ひととよめぐみ)も見目こそ手指や脚などすべてそろっているように思えるけれども、その実、彼女は肢体の内側が欠損しており、自身の臓器の多くを失くしていた。事故で植物状態になり、新鮮な臓器の多くが病に苦しむ見識らぬ患者に提供されたためだ。恵はもう二〇回も喪肢臓探祭に訪れているものの、心臓、肺、肝臓、腎臓、膵臓、小腸、左眼のうち、心臓と肺と小腸が見つかっていない。臓器の類も、指と同じくさまざまな病や致し方ない理由で切除されることが多いため出店に多く出回るにくであるけれども、矢張り、数が多いとそれだけ捜索には難航する。
 出店に目をやりながら、恵は昨年と同じことを言った。「あたしは臓器提供なんかしたいって一言も言ってないのに。親のエゴのせいで死んでからもこんなことしなきゃいけないの、ほんと嫌」香蓮はその言葉に苦笑をする。生前は臓器提供という仕組みを素晴らしいと思っていたからこそ、死後にこんな苦しみに苛まれる恵のそばに居ると複雑な気持ちに成るからだ。自分の体の一部が二度と戻ってこない痛みは、亡者にならなければ理解し得ない。何かが欠けている、という感覚は筆舌に尽くしがたい違和感であり、共感ができてしまうからこそ、幾ら恵のおかげで救われた生者が居るとしても恵の怒りも察せられるものだった。
 香蓮と恵はときおり出店の手前で立ち止まりつつ、自分のにくを探した。あれも違う。これも違う。ああでもない。こうでもない──。出店はまだまだ続く。きっと無限の亡者の数だけ、黄泉の底まで。自分の脚を見つけて喜ぶ亡者の声が左の出店から聞こえる。永らく洞穴でしかなかった目もとにようやく眼球を収めることができて泣き崩れる亡者もいる。悲鳴、歓声、怒声、足音、人影のそれぞれが、提灯の灯りの下に満ちている。香蓮の指は見当たらない。
 しばらく歩いてからのことだった。終わりの見えない人ごみにうんざりしていた恵が、「あ。」と言って立ち止まる。彼女のつまさきは右を向いていた。右の出店だ。そこには、釣ったばかりの魚を何種類も揃えて売るみたいにしていくつもの心臓が置いてあった。──その中でもいっとう色のよく瑞々しいものがある。持ち主でなくとも香蓮にも分かった。彼女の心臓は斯くあるべきだ。あれは恵の心臓だ。誰かに貸していた心だ。二〇年の時を経て、いまやっと戻ってきたのだ。
 恵は出店のもとに駆け寄ると迷いなくおのれの心臓を手に取ってその手ざわりを十分に確認したのち、両の手で包んだその小さくなまあたたかそうなにくへと愛おしそうにほおずりをした。まるで生き別れた子を抱く親のようだ。恵は繰り返した。
「嗚呼。あたしの心臓、あたしの心臓だわ……! やっと会えた。帰ってきた。やっとなの……うれしい!」
 香蓮は取り残された草原の中で恵を眺めていた。自分のにくを抱えてよろこぶ恵の背を、うらやましいと思わないこともなかった。然し、香蓮は心のどこかで安心さえしていた。まだ四年しか経過していないもののおのれの指を見つけられたとして、自分はあんなにも喜ぶことができるだろうか? いいや、本当はわかっている。香蓮は自分の指を探しているのでない。指の〝有無〟を探しに、この喪肢臓探祭へやってきているのだ。
 香蓮は人波の中でうつむき、ふと生きていたころのことを追想した。婚約者である時雨綾瀬のことを思い出して、綾瀬君、とささやく。不完全な左手で自分のくちもとにふれる。まだ、彼の名前の発音を忘れてはいない。まだ、彼の名をこの舌で読んでいたころの記憶はある。くちづけされた感触だけが、だんだんと遠のいてゆく。

 ──生前の五月雨香蓮は、二五の頃に重い病を患った。幾度となく行った検査の結果長期の入院が必要と診断され、国立の病院で治療を続けたものの、現代医療が香蓮を蝕む病魔を退けることは終ぞかなわず、三年の闘病の末に決着がついた。短いようでいて、確りと長く険しい三年だったように思う。香蓮の家族も香蓮の婚約者であった綾瀬もひどく疲弊した。香蓮は死後もそのことを申し訳なく思っている。
 婚約者の時雨綾瀬は香蓮のことをきちんと愛してくれていた。看病もよくしてくれたし、仕事で忙しいだろう合間を縫って見舞いにも頻繁にやってきた。どれだけ剥くのが面倒であっても香蓮の好物である新鮮なピンクグレープフルーツを切り分けてくれたし、手足のマッサージも念入りにやってくれた。外出許可が出た際にはかならず一緒に出掛けて、公園に咲いているチューリップを見るだけの散歩でさえ立派なデートだと言ってわらうようなひとだった。メガネの奥のまなこを潤ませて死なないでほしいと何度も乞われた。冬には君にプロポーズをするから、それまでは頑張って生きてくれとも希われた。然しそんな綾瀬の祈りも空しく、香蓮は春の終わりに余命宣告を受け冬を迎える前にあっけなく死んだ。綾瀬は香蓮を宿主に選んだ病を恨み、神を呪い、無力な自分を呪った。そんな綾瀬の姿を、成仏する前の香蓮はおのれの死体のそばで見守っていた。
 果たして死体となった香蓮を前にして綾瀬が取った行動を、愛と称してよいのか罪と詰るべきなのかはわからない。ただ、香蓮は愛だと信じている。そうでなければ、婚約者の左手薬指を切り落として盗んだりしないだろう。
時雨綾瀬は「本当はクリスマスの日に贈る予定だったんだけど、」とふたりきりになった病室──香蓮の両親と妹にすこしのあいだふたりきりにしてほしいと頼んで作り上げた疑似的な密室とも言える──でそうつぶやくと、香蓮の左手薬ゆびにうつくしいダイヤモンドの付いた指輪を震える手で嵌め、噛みしめるように、願いを込めるように左手をつよく握りしめた。そして沈黙をひと匙ほど食むと、ポケットに入れていた切れ味のよい刃物でゆびを根元から切り落とした。それはずっと前から計画していたかの如く、幾度となくシミュレーションをしたものにもひとしい完ぺきな無駄のない動きで、あまりにもためらいがなく、あまりにもよどみのないものだった。綾瀬の手つきに、霊体の香蓮はぎょっとしたものだ。そんなふうに婚約者の指を切り落とせちゃうんだ? とひどくショックを受けた。けれどその考えはすぐに塗り替えされる。
 指輪がちょうどよく嵌った薬ゆびをすぐさま氷水の詰まった袋に包んだ綾瀬は、肩にかけていたカバンから先ほど切り離した香蓮のものとそっくりな見目の指を取り出した。刹那、香蓮は機能しなくなった肺で息をのむ。香蓮は悟る。──それは、まぎれもなく義指だった。腕のいい義肢装具士である時雨綾瀬が造ったに違いない左手の薬ゆびだった。爪の根に在るほくろの大きさやいろみだけでなくその輪郭やおもてのふくらみまでもが完全に再現されている、並べたらきっと見分けがつかない指の複製だった。
 時雨綾瀬は怪我で脚を失った祖母の世話を昔からしていて、あるとき義足を得た祖母の姿を見てから義肢のもたらす可能性に憑りつかれた人間だった。「義肢は人の可能性を広げてくれる存在なんだ」そう語って聞かせてくれる綾瀬のことが香蓮は誇らしかった。……まさか、あなたの語っていた可能性ってこういうこと? 香蓮の指の喪失を偽装するために、自分の持ち得る技術力と凄絶な決断力とこの先ゆきばの見えない愛で以て、綾瀬は婚約者の運命を奪うことを決行してみせたのだ。てきぱきと適切に処理と処置を行う綾瀬の、鬼気迫るあの顔といったら! 愛しているからこそ綾瀬はためらいなく香蓮の指を切ることができたのだ。そうでなければ、わざわざ何も誓えなくなった死体に指輪なんて嵌めるもんか。この先永遠に動くことのない死体のためだけに、義指を造るもんか。
 香蓮の指を切断し、人知れずに〝盗んで〟数分ほど経過したころ病室にやってきた香蓮の家族に対し、綾瀬はまさか死体から指を切り落としたおとことは思えぬほどおだやかな表情で相対してみせた。綾瀬の義指は完璧で、棺桶に入る香蓮に花を添える瞬間でさえ誰も香蓮の欠損など疑わなかった。本当の香蓮の薬ゆびは、おおきなダイヤモンドのついた指輪が嵌ったものであるのに。とこ世とうつし世に蔓延る人間の中で唯一香蓮だけが、綾瀬の罪を、綾瀬に向けられた愛を識っている。
 香蓮の指の行方は香蓮自身も把握できていない。ただ、きっと綾瀬の家の冷凍庫か何かの奥底に仕舞われているんじゃないかと予想している。綾瀬なら、きっとそれくらいする。指輪が嵌ったままつめたく暗い場所でじっとしているおのれの薬ゆびを、香蓮は黄泉で想う。なきがら集めは持ち主を喪ったにくしか拾ってこない。もしも喪肢臓探祭で自分の指を見つける日が来たら、それは綾瀬が香蓮への愛が尽きて指を捨てたときか綾瀬が死ぬときだろうと確信している。嫌な二択だ。でも、できれば後者であってほしい。

 結局、今年の喪肢臓探祭で香蓮が指を見つけられることはなかった。見つけた心臓を吞み込んだ恵が香蓮の肩をたたいて、気落ちしたように見えたのだろう、まるまった背を励まそうとしてくれる。場違いな気遣いだ。でも、香蓮はなんでもなさそうにわらった。
「落ち込むことないよ。いつか見つけられる。黄泉は永遠だし、この祭りは毎年あるんだしさ。ね? 和宇ちゃ当たるじゃないけどさ。あたしたちには時間がある」
「うん。……そうだね。いつか見つかると思っておく」
 また来年まで、どうか綾瀬が自分の指を捨てないでいてほしいと願いながら香蓮は黄泉を歩き出した。わたしの結いのゆびをあんなふうに奪ったのなら、死んでいたって一生愛してくれなきゃ困る。綾瀬が死んでから、指輪付きの指を返してほしい。それがいい。

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