見出し画像

為朝vs清盛! 清盛のとった作戦は?

 先日、TBSの昔の新春大型時代劇スペシャルの「平清盛」が再放送していたので見ていた。これは1992年に放送されたもので、主演清盛役を松平健がやっていたもの。当時のキャスト一覧を見ると「ひえ」ってなるくらいの豪華キャストで、みなさん今よりお若いので役者さんを見ているだけでもかなり見応えがあった。
 特に、清盛の松健さんと、鳥羽法皇の松方さんが、同じ人物の年齢による雰囲気の変化を演じ分けていたのがすごく良かった。清盛は、十代の頃と壮年期では全然違うし、鳥羽法皇は全盛期と晩年で全然違っていて、本当に役者さんも歳を取ったようだった。メイクなどは当時より今の方がもちろん技術は上がっているのだろうけれども、だからこそ役者さんは身にまとう雰囲気から変えているということが際立って感動した。

 と、ここまでは前置き。
 Twitterでも少し呟いたことなのだが、ドラマを見ていて、保元の乱の時の清盛の逸話を思い出したので、今日はそれをご紹介。『保元物語』上・第12章「白河殿に義朝が夜討する事」という段にあるエピソードです。

 タイトルの通り、保元の乱の際、清盛は進軍中になんとあの為朝の軍に遭遇してしまう。為朝といえば日本最強の武士と言っても過言ではない。中国でいうところの呂布のようなポジションである。

 清盛の手勢の中でも武力自慢の伊藤景綱、伊藤忠清と忠直兄弟が為朝の前に出て勝負を挑む。ちなみに伊藤忠清というのは後に富士川の戦いで維盛と一緒に戦った武将である。
 昔の武士の慣習で、伊藤さんたちが為朝の前で名乗りを上げると、為朝は清盛たちのことを「合はぬ敵(=相手にならない。敵として物足りない)だからさっさと帰れ」と相手にしない。
 そんな態度にカチンと来た景綱が、「敵わないかどうか試してみろ!」と言って為朝に矢を射かける。しかし、為朝はものともせず、

「まあ相手にならないとは思うが、この世の面目、あの世の思い出にでもしろ」

と言ってめちゃくちゃ強い弓矢を引いて一発。射られた矢は伊藤忠直の体を貫通し、勢い余って後ろにいた忠清の鎧まで到達した。忠直は即死、忠清は鎧に刺さった矢を折って清盛に見せ、ことの次第を報告する。

 これを聞いた清盛と周りの武士は恐れおののいた。もはやドン引きレベルだっただろう。みんなが「恐ろしい」と言って戦力が喪失していく中、清盛はどうしたか。


清盛「必ず清盛がこの門を攻め落とせという命令を承って来たわけではなく、なんとなく流れでここに来ただけだ。他の門に向かえば良い。ここに近いのは東門か?」

 方向転換。戦うのを避ける選択を取るのである。

 この選択はなかなか現実的だ。
 「武士」は、強者に勝ってこそのツワモノ! みたいな勝手なイメージを抱きがちだが、清盛は平氏のトップとして、「どうすれば戦に勝てるか」というポイントを押さえて行動している。つまり、目の前の敵ではなく、戦の盤面全体を見ているのである。
 例えるならば、三國無双のゲームで、呂布を倒さなくても敵の本陣を落とせばステージクリアできるという攻略法に似ている。あえて難しい方法をとってクリアするロマンもあるけれども、ただ勝てば良いだけなら避けられる困難は避けたほうが全体の勝率も上がるだろう。
 報告を受けてビビっていたという描写はあるものの、もちろん清盛にだって武士としてのプライドはある。為朝は清盛や平家をナメ切った発言もしているので尚更である。それでも、現在の自分達では為朝に勝つことは困難と判断し、「為朝とは戦わない、が、よそと戦う」という選択をするのである。
「じゃ東門か」と清盛が進軍しようとすると、兵たちが、
「そこもこの門に近いので、もしかすると為朝の守備範囲内かもしれません!北門に行きましょう!」
と口々に言う。兵たちも必死である。清盛はそれに対して、「それもそうだな。もうすぐ夜が明ける。小勢に大勢が追い立てられるのも見苦しかろうし、さっさと移動しよう」と、一応体面を気にした発言をしている。
 「この門を攻めろと命令されたわけでもない」と冒頭に言っていた通り、清盛は「命令があれば退くわけにはいかない」ということも当然わかっている。そして、「明るい時間に人目があるところでは退却しにくい」ということも理解していた。今回は、「命令を受けておらず、人目もない」という条件がそろっていたために為朝との直接対決を避けて「よそへ行く」という手段を取ったが、もしどちらかの条件が無かったら、形だけでも交戦せざるを得なかったかもしれない。清盛的には、「平家が源氏を前に逃げ出した」という醜聞が広まらないように、よく言えば布石を、悪く言えば逃げ道を用意したうえで撤退という手段を固めたのであった。

 しかし、この決定に異論を唱えたのが、当時19歳の長男重盛である。
 重盛は、

「勅命を賜って攻め入っているのに、敵を恐れて引き返すなどありえない! 続け、若者たち!」

と、若い武士たちを連れて為朝の陣に攻め込もうとする。

 確か、大河の清盛の方では、この清盛と重盛が逆になっている演出で、重盛が冷静な判断で攻めず、清盛が攻め入ろうとするという構図になっていた。が、後々冷静沈着で賢いイメージの重盛が、若かりし頃は血気盛んな若武者であったという描写で、私はこっちの方が重盛が人間らしくて好きだ。

 これに驚いたのが清盛である。未熟な若武者が突撃したら、速攻で負ける(死ぬ)ことは目に見えているので、勝手に出ようとする重盛に大慌て。

「あれを止めよ、者ども!! 為朝の弓の腕前が桁違いなのは、もうわかりきっている!!」
(重盛に)「過ちを犯すな!!」

 兵たちが急いで重盛の前に出て壁になり、重盛は悔しがったけれども、力なくその場を離れて春日の門の方へ移った。

 私は清盛を評価して書いたけれども、人によっては「清盛逃げてんじゃん!」と情けなくお思いになるだろう。
 勝てなくてもファイトだけするべきという意見もあるかもしれない。

 けれども、一人の武士としての名誉よりも、多くを束ねる棟梁として、敵との力量差を見極め、最善……とは言わないまでも「最悪」を避け、盤面を鑑みて、戦全体の状況を見る、という判断をする清盛が、リーダーとして有能だなと思うのである。

 『平家物語』の清盛はかなり「悪」の面を強めに描かれているので、そういう冷静な清盛が描かれている『保元物語』は面白い。
 ちなみに『十訓抄』に出てくる清盛も、上司として結構いい感じなので、参考に以前カクヨムで書いた記事を貼っておく。

 以下、おまけ。
 維盛(孫)は富士川の戦いに敗走した際、『平家物語』でも史実でも清盛にド叱られている
 清盛的には、頼朝には勝てたという思いがあったのもそうだし、水鳥の羽音に驚いて逃げたという「噂が立った」だけでも、平家の面目が丸つぶれなので、「もうちょっとうまくやれ」という思いもあったのかもしれない。
 維盛は、史実では「私は死んでもいいから相手に突撃する!」と言って一人戦おうとしていたのだが、先述の忠清と忠度(清盛の弟)になだめられてそのまま連れ帰られている。そこは若いころのお父さんに似ているんだなあと思うと、感慨深いものがある。『平家物語』では、維盛は「貴族化して弱くなった平家」の代表みたいに描かれているのが、かわいいけど、ちょっと残念でもあるんだよなあ。かわいいけど。

 というわけで、今日はここまで!
 『保元物語』『平治物語』は『平家物語』へとつながる軍記物語で、『平家物語』と共通の登場人物も結構出てくるので、また紹介したいところである。

読んでいただいてありがとうございます! スキ!やコメントなどいただけると励みになります。サポート頂けた分は小説や古典まとめを執筆するための資料を購入する費用に当てさせて頂きたいと思います。