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公任さんと長能さん(後編)
1ヶ月以上経ってしまいましたが、お久しぶりの公任さん更新です。
前回はこちら。
これまでの話を簡単に確認すると、
「心憂き年にもあるかな二十日あまり九日といふに春の暮れぬる」
(超意訳:いやな年だなあ、いつもは三十日まであるのに今年は二十九日で春が終わってしまう)
という歌を、歌会で詠んだ長能(ながとう)さん。公任さんに、
「そもそも春って三十日じゃなくね?」
と突っ込まれてしまい、それがショックで歌会を途中退室してしまう。今回はその一年後の話。
※使者のセリフは創作です。
この話は、いくつかバージョンがあるのだが、いずれの場合も長能は死ぬ……。
長能が病で死にそうだと聞いて、使者を送った公任さん。やっぱりどこかで、あの日の歌会のことが引っかかっていたのか、はたまた全然気にしてなかったけど同じ歌詠み仲間として普通にお見舞いしようと思ったのか……。
公任さんの使者を迎えた時の長能側の反応は本によって違っている。『古本説話集』には使者への対応は載っておらず、ただ手紙を持ち帰ったとだけ書かれている。この場合、もしかすると、使者は長能に会わせてもらえなかったのか、あるいは短い面談で終わったのかなという想像もできる。
今回は、『古今著文集』と『十訓抄』の文を採用。古今著聞集によると、長能は「悦びて承り候ぬ」と、使者を喜んで迎えたらしい。
喜んで迎えたのだけれども、公任さんの使者に語ったのは、「私が死にそうな病になったのは公任さんに言われたことがきっかけなんですよ」という内容。どのような様子でそれを語ったのかは書かれていないが、喜んで迎えたテンションのまま、世間話のように語っていたとしたら、もはやホラーである。聞かされた使者の気持ち。
事実としてはどちらが正しいのかわからないが、私は、説話としてはこちらの方が深みがあって好きだ。当時の長能を想像するとシンプルに悲しくて、怖くて、長能の壊れた感じや、和歌の大家で貴族としても高位である公任さんからお見舞いが来たのは嬉しいけれども、こうなったのは公任さんのせいなのだから何か言わねばという気持ちがぐちゃぐちゃになっている表現になっていると思う。
そしてどのバージョンでも最後に公任さんはとても嘆く。
この時ばかりは、普段から自信満々で失言も多い公任さんであっても反省したらしい。
自分の言葉が原因で相手を死ぬほどの病にしてしまったことは、公任さんの心の傷になったようだ。
前回も書いたけれども、公任さんには悪気があったわけではないはずだ。軽い気持ちで反射的に突っ込んだのかもしれないし、長能の和歌作りへの助言になればと良かれと思って言ったのかもしれない。しかし、ちょっと考慮がなさすぎた。自分の立場や、長能の繊細な性格をもう少し考えるべきだった。
とはいえ、普段から付き合いがあったわけではないのなら、性格のことはわからないし、不幸な事故のようなものだとは思う。
前の、「鷹狩りの歌ジャッジ」の時に長能に負けをつけてしまったことも重ねてストレスになっていたのだとしたら、公任さんは最初あまり気が進まない様子だったし、ちょっとかわいそうな気すらする。これは私が公任さんびいきだからかもしれないが……。
長能は、「自分が死ぬことになったのは公任さんが原因だ」と思ったまま死んでしまったかもしれない。でも、「公任さんの言葉に傷ついて病になってしまったこと」を知って欲しかっただけで、恨んで呪って死んでいったというわけではなかったのではないか、と私は思いたい。その可能性を見たいから、私は、長能が「喜んで」使者を迎え入れたのだったら良いなと思っているのかもしれない。
今回はここまで!
次回は何の話にするかまだ決まっていないけれども、そろそろ斉信を出したいな〜。
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