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山陰中納言の話にみる「誰でも知ってる」の脆さ

今日は土曜だけど古典の話。
『十訓抄』から、浦島太郎のような昔話を。


昔、山陰中納言という人がいて、筑紫に下向する途中、鵜飼が殺そうとしていた亀を買い取って逃がしてやった。

その旅には2歳ほどであった息子を連れていたのだが、継母と乳母が共謀して、偶然を装い船から落としてしまった。
突然息子が海に落ちた山陰中納言は呆然としていたが、そのとき、助けた亀が息子を甲羅の上に乗せて船のへりに置いていったので、すぐに助け上げたのだった。

この話は『如無僧都の話』として有名なので、ここで詳しく書く必要は無いだろう。

いや、如無僧都の話って何!?

さも誰でも知ってるよねみたいに書いてるけど、残念ながら現代には残っていません。

一応新古典文学全集の注には、

藤原山陰の子(867~938)。興福寺の僧。死んだも同然なので「無きが如し」とつけたという(『今昔物語』ほか)

とあり、残っている情報からある程度の推測は出来るようだが、実際には散逸してるので、推測という感じのよう。

ここから思うのは、たとえば現代ならば桃太郎やシンデレラは誰しも知っている物語だけれど、数百年後もそのまま残っているかわからないということ。

長いものでは『竹取物語』は1000年前の物語が今でも残っているわけだけれど、1000年前はもっと色々な物語があったはずだ。

人から人へ伝えられたり、または様々な幸運が重なって未来で発見されたりして将来残った『古典』は全体のほんの一部である。
『十訓抄』は残ったわけだけれど、『十訓抄』が書かれた当時に誰でも知っていた如無僧都の話は、今となっては誰も知らない。
そうなると、せっかく残った『十訓抄』が割愛せずに簡単にでもあらすじを書いてくれれば〜! セットで残ってたのに〜! なんて思ったりする。
想像の余地があるのも、それはそれで楽しいんですけどね……。


これは今の時代も共通だと思う。特に、現代ならば、国内ではほとんど知られていても、外国から来た方は知らないなんて話も多々あるだろう。そういう人も置いていかない知識の置き方が必要になると思う。
本を書くとき、誰でも知っていることだと思うと割愛してしまいたくなる気持ちも大人の都合も理解出来るけれど、できるだけ何か他から話を持ってきて記述する時にはソレを知らない人に向けてあらすじとか、簡単な説明は書いておきたいものだと思う。

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