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古典と二次創作の話

 今日は公任さんを更新したが、それはそれとして定期更新の方も。今回は具体的な作品の話ではなく、私が古典文学について考えていることについてつらつらと語ってみる。
 敢えて思考の流れをそのままに書いているので、あまり整理はされていないかもしれない。ご飯食べながら皐月あやめの古典トークを聞いている感覚で読んでいただければと思う。

 古典の種類にもよるが、現代に残っているもので当時の文章がそのまま残っていることはほとんどないと思う。というのも、例えば平安時代であれば印刷技術がないので、「写本」という方法を使って書物を普及させている。そして、写本とは人の手で行うものなので、ヒューマンエラーはつきものである。
 古典の注釈を見ると、時々「ここは◯◯の間違いか」という注がある。その間違いの原因が写し間違いということも少なくない。
 だから、作者が書いた完全オリジナルの本というのはほとんど無いと言っても過言では無いだろう。
 作者が作ったAの本をちょっと編集したり付け足しちゃったりする人もある。絵画でいえば、ダヴィンチの最後の晩餐の元絵の上に修正と称して別の模様を描き込むのに近いかもしれない。悪気なく改変したりすることがある。改変本の方をBとすると、後世の我々はAの本とBの本のどっちがオリジナルかわからなかったりして、オリジナルを求める者としてはそこが結構大変なのだ。

 例えば『平家物語』の場合、『平家物語』と一口に言っても30種類以上ある。どういうこと? とお思いになるかもしれないが、まず『平家物語』は読み本系統と語り本系統という二つに大別される。読み本はそのまま、「読む」ことを前提にして書かれた本、語り本は琵琶法師が「語る」ために作られた台本と思って貰えば良いかと思う。そこからさらに細かく派生していく。教科書でよく取り上げられる有名なのは、語り本系統の「覚一本」が元になっている。しかし、この覚一本は最初に書かれた『平家物語』ではないらしい。
 『平家物語』起源論というのは、最近まで議論が交わされていたところであるけれども、現状は読み本系統の「延慶本」が最も原型に近いだろうという見方が有力である。
 『平家物語』には実在の人物が登場するが、延慶本は史実に近く、覚一本は物語らしい演出が加えられているという説があるように、そこにでてくる人物の言動やキャラクター性も本によってさまざまなのである。

 よく、アニメや漫画を舞台化したものや、フィギュアについて「2.5次元」と表現するが、私は古典に出てくる実在する人物の話も「2.5次元」だと思っている。この場合は、二次元を三次元に持ってきたのとは逆で、三次元を二次元に変換した2.5次元だ。実在した推しに会うことができなくても、二次元の中にいる推しをかき集めて三次元の推しに思いを馳せることができるし、二次元の推しもそれはそれで愛しく尊いのである。
 先程の『平家物語』のたとえで言えば、平家物語に出てくる「平清盛」というキャラクターは割と横暴な人間に描かれている。これは他の史料や説話と比較すると事実と異なるエピソードも入っており、明らかに物語の装置の一つとして「創作」されたキャラクターだ。でも、全て作られたものではなくて、中には本当のことも混ざっている。そのちょっと残っている「本当のこと」が、古典の中に出てくるキャラクターと現実を結びつけ、リアリティとともにその人は確かにこの世にいたのだと実感させてくれている。

 私はそういうことも含めて古典が好きだ。そしてオタク的発想で、「作者」が書いたものが「公式」なのだとしたら、より公式に近い情報が嬉しいし、実在した人物の名前が出てきたら、実在したその人がどういう人なのか知りたくなる。

 古典というのは「解釈」が挟まれる。これは別に古典に限ったことではなくて、漫画などの二次創作でも同じなのかなと思う。作者が考えているA君と、読んだ人がそれぞれ頭の中に作り上げるA君は同じ人のようで別のキャラクターなのである。自分の頭の中のA君を少しでも作者が考えているA君に近づけるために、公式が供給してくれる些細な情報や日常カットは大変ありがたく感じるのだ。

 実際、私は公式の供給があればあるだけ嬉しいタイプなのだが、古典においても自ら公式情報を掴みに行っている。それが私の最推し維盛についてで、一般的な『平家物語』の情報では飽き足らず、さまざまな『平家物語』に出てくる維盛を読み比べるのはもちろんのこと、当時の貴族日記(漢文)や、日記的章段の多い「建礼門院右京大夫集」などから維盛に関する部分を抽出して読み耽り、私の中の「平維盛」の解像度を高めていったのである。
 貴族日記が全て史実かというと、実はそうとも言えない。日記も写本で伝わっている場合もあるし、そもそも書いてあることが全部主観で、噂も多分に含まれているからである。しかし、今現存する史料の中では最も歴史に近い記述として重宝されているわけである。
 ちなみに貴族日記は割と淡々としていて「こんな服着た」「こういうルートで出勤した」「誰々が◯◯した」「夢見た」みたいな、事務的な記述が多い。読んでいると結構飽きてくるのだが、その分面白い記述があるとテンションは上がるので、楽しい。いかに推しの情報を拾えるかという点では、自分で発掘している感じで楽しい。


 比較させていただくのも恐れ多いけれども、私が大好きな『うた恋。』シリーズに出てくる公任さんと、うちの公任さんは、同じようでも別キャラクターである。そしてその元ネタは同じであっても、本当の公任さんとはまた違う。
 史実の公任さんが公式だとして、説話が既に二次創作(説話の作者の頭の中の公任さん)なので、本当の公任さんを掴むのは難しい。
 また、公任さんの残した本や「伝藤原公任」の書を見ると、確かに実在していたことがわかって嬉しいが、仮に本当の公任さんがどういう人か分かったとしても、説話などに出てくる誇張された公任さんもそれはそれで好きだ。 

 
 古典を原文で読んだ方が良いというのも、ちょっと関係がある。ただでさえいろんな人の手を介して現代まで来た古典であるので、そこに「現代語訳」が加わると、また一歩オリジナルに遠ざかってしまうのである。「現代語訳=本の内容」ではない。これは海外文学の翻訳にも言えることだが、翻訳・現代語訳も一つの創作である。たとえば『枕草子』を原文で読むのと現代語訳で読むのとでは、清少納言との距離が違う。仮に内容が当時と変わらないものだったとしても、現代語訳を介した場合、そこにいるのは、現代語訳した人の清少納言である。それを楽しむ目的で読んだり、自分で内容を理解する時の参考にする分には全然構わないが、「現代語訳されたもの読めば内容わかるからいいじゃん!」という考えで臨むと、ちょっと違うよっていう話なのだ。

 と、ここまでつらつらと思いつくままに述べてきたが、写本に関しては基本的に作者をリスペクトして保存する方向でされているはずなので、概ね正しいと思っていいと思う。大事なのは、完全にイコールではないということを頭に入れて、いろんな情報を多角的に見て参考にすることだと思うのだ。
 だから、私も古典を紹介するときはできるだけ論文や本など複数の資料にあたってから書くように努めている。

 古典には楽しいキャラクターがたくさん出てくるし、同じ人物について複数の説話で語られていたり、近い内容でも微妙にバージョンが違ったりする。趣味として楽しむ分には、それらの情報を総合して自分の好みの説をカジュアルにつまみ食いするのもまた、古典の楽しみ方だと思う。

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