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平泉懐古


令和5年5月に漢詩の地を訪ねました。

平泉懐古  大槻磐溪

三世の豪華 帝京に擬す
朱楼碧殿 雲に接して長し
只今 唯 東山の月のみ有って
来り照らす 当年の 金色堂

私はこの漢詩を子供の頃からよく聞いてきました。
只今、唯、のところが、
「ただいま」(帰って来た時の挨拶)に聞こえて、大人がこの詩吟をやっていると私が「はーい、お帰りなさい!」と言うために、
そこで大人達が笑ってしまうという事がよくあったそうです。

歴史とは謎も多く、大河ドラマも実際とは違い、脚本が入っていたりすると言われていますね。

源頼朝が弟の義経を兄弟なのに打ち攻めた事や、
義経をかばった藤原家が滅ぼされてしまった事、
私はその歴史を知った時
悲しい気持ちになりました。

ここが合戦の地です。
ここを頼朝の軍勢が登って来て攻めたそうです。
けっこう急ですけど、馬に乗って攻めてきたのかな?

合戦の地
頼朝勢はここを登って来た

金色堂は撮影禁止なので写真は撮りませんでしたけど、金色堂には、
初代、清衡公(中尊寺を造営)
二代基衡公(毛越寺を造営)
三代秀衡公(源義経を招きいれた)
四代泰衡公

金色の棺に納められ、今も安置されいるというので、私は手を合わせて魂が安らかに光に包まれますようにと祈りました🙏

その後、この地を訪れた詩人、
松尾芭蕉が、

夏草や つはものどもが夢の跡 
『おくのほそ道』
と詠んだのはあまりにも有名ですね。

私がこの地を訪れて感じた事は、
人は何か目的を持たないと生きていけないものだなと思いました。

戦いで領地を広げる
旅をして詩を詠む

これは両方に目的があります。
時代が違うという背景もありますが、
何を目的とするか、
これが大事なんだなと思いました。

又、大槻磐渓(漢学者、文章家)は六番目の次男なので『六次郎』と名付けられ、横須賀に黒船が現れた時には漁船に乗って黒船に近づいて、軍艦の中にいた中国人通訳と話す事ができたといい、漢文の才能がこの時に生かされています。
開国論を訴え、
その後、辰巳戦争が起き、
政府に逆らった罪で投獄されますが、磐渓を慕う多くの弟子の懇願などより、自由の身となるなど、
才能豊かな人物である事が分かります。

私は漢詩を通して、歴史を学び、
その地を実際に訪ねると、
たとえば詩吟で平泉懐古を吟じるとき、たとえどこに居ても、
ありありと目の前に金色堂が広がるのです。




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