ちぇりがホーチミンを好きな

ちぇりがホーチミンを好きな理由 002 ホーチミンから、an com chua?

an com chua って?

初対面の人には言われませんが、ホーチミンでローカルの人と仲良くなってくると、ふと顔を合わせた時に「こんにちは!」とか「どうしてる?」とかじゃなく、

an com chua?

と聞かれることがあります。
ご飯食べた?というフレーズ。

これを、食事への誘いと捉える人もいれば、なんで会うたびにこっちがご飯を食べたかどうかなんて聞くんだろう?と訝しがる人もいらっしゃるようですが、これ、東南アジアではよく聞くフレーズ。

その昔、私がマレーシアで暮らしている時もよく聞かれました。

sudah makan?

日本ではどうか。
たまに、聞く気がします。あくまで自分の場合ですが、自分もまだ食べてなくて、相手も食べてないならその後、一緒になんか軽くどう?というつもりの時とか、朝食やランチには微妙な時間にその方が家に来た時、もしくは相手がその直前忙しそうだった時、

「あ、もうご飯食べた?」

と聞くことが。でも東南アジアのそれほど頻繁で、なんなら「やあ!」を代用する慣用句のように使うことはないかなぁ。それくらいしょっちゅう聞く言葉なんです。

なんでそんなに人が食べたかどうかを聞きたがる?

「元気?」「どうしてる?」も、深い意味はないとはいえ相手を気遣うところから来ている挨拶。なので、an com chua?も相手を気遣うところから発生した言葉であろうと予測します。

そもそも「こんにちは」だって「今日はご機嫌いかがですか?」から来ていると聞く。挨拶は、知り合いに会った時に発信する「あなたとは近しい間柄ですね」といことを示すサインであるだけではなく、相手の様子を伺う意思を示す言葉でもあるんですね。

これはコミュニケーションにおいて非常に基礎的なことなのですが、関係を築くにはまず、自分の胸の内を開示する、というのが大事だったりします。自分は閉じたままなのに相手には心を開け、というのも「あんた何様」案件ですよね。

だったら、自分が何を食べたかを先に伝えることになるんじゃないかって?そうではなくて…

相手に「もうご飯食べた?」と聞くことで「私はあなたを気遣っていますよ」という挨拶の根っこにある「気持ち」を開示してるんです。私はあなたを赤の他人より親しく思っていますよ、あなたの敵ではありませんよ、などの言葉の底の方にある「親しみ」を表すのが挨拶。

ビジネス的に考える際、挨拶は相手より先にするべし、というのを心がけている方がいるのもわかりますよね。先に気持ちや開示をできる、ということは自動的に相手が「開示された『から』応える」、つまりはこちらを追随する形になるわけです。サイコロジカルな視点からいうと、その会話の、引いては関係性の主導権を握ることができることにもつながる。

まぁそんな戦略的な意図が日常の知人同士の間にあるわけではないでしょうが、こんにちは、も、どうしてる?も、ご飯食べた?も、たかが挨拶、されど相手を気遣う優しい言葉であるのだろう、と思っています。

ご飯食べた?に「まだ」と答えたらどうなるの?

さて、ご飯食べた?が他と同じ挨拶のように優しい言葉だというのはわかっているけど、どうも、この言葉だけはちょっと特別な気がするのです。もちろん慣用句的に使われているケースもあるんでしょうが…

経験からこの挨拶の裏には相手を気遣うだけじゃなく、さらにもう一段階、奥に背景がある気がするのですね。

ご飯食べた?という問いへの答えは、率直には「食べた」か「食べてない」になります。食べた、という答えに対しては「なら良かった」という安堵でしょう。相手も満足している状態なのだから心配することは何もない。ですが、「食べてない」と答えた場合にどうなるか。

日本、というか、私の場合、自分が相手に尋ねてその答えが返ってきたら「えー!ちゃんと食べんと!」とか「大丈夫?」とかになると思います。その後一緒にお茶するタイミングだったら「なんか食べられるものがあるとこにする?」くらいの提案はするかもしれません。

しかし、ホーチミンではこんな例がありました。
旦那さんから聞いた話です。

会社のガードマンさんたちとも仲良く挨拶を交わす間柄の彼が、ある日「ご飯食べた?」と彼らに聞かれてうっかり「まだなんだよー」と答えてしまった時のこと。その答えを聞くや否や、おそらくは自分で食べようと思って持っていたパンを半分に割ってくれようとしたという?!

実は私にもそんな経験が何度かあります。
外から帰ってきてレセプションの女の子に「ご飯食べた?」と聞かれれて「まだなのー、お腹ペコペコ!」と軽い挨拶のつもりで返したら、自分のカバンの中をゴソゴソと探して「これ!持ってって!」とクッキーの袋を渡されたたり、飴ちゃんを握らされたり。

そんな話をしていると、台湾在住経験がある方も、お子さんづれでタクシーに乗ってる時に同じように聞かれて「娘、まだ食べてないんですよー」なんていうと、明らかにご自分が食べようと思ってたらしきあんパンをくれようとしたりしたことがあったとか。泣くやろ、そんなの。

そういえばマレーシアでも同じように「ご飯まだー」みたいに返したら、おそらくは今買ってきたであろう自分のご飯らしきナシラマ(ココナツミルクで炊いたご飯にサンバル(チリ)や揚げ小魚、ピーナツを添えてバナナの葉っぱで包んだシンプルな朝食)をそのまま渡そうとされたことがあったな。

ご飯食べた?と聞かれて「まだ」と答えようものなら、食べるものを渡されてしまうことがあります(笑)。もちろん全てのケースじゃないでしょうが、これ、珍しくないのです。

なんでそこまでする?

日本人ならそれ、固辞する所ですよね。いやいやそんなつもりで言ったんじゃないし、と。実際、人様にそうやってもらわないと食べられない状況でもない。そして自分が「ご飯まだなんだー」と言われても、手持ちの食べ物をすぐに分けることは少ないかも。ましてやパン半分、とか飴ちゃんとか、こんなものを上げてもな、なんて恥ずかしくてできなかったり。

でもきっと…
東南アジアにの遠からぬ過去に、文字通り食うや食わずという時代があったのではないかと思うのです。その「食わず」の部分は本当に物理的に「食えない」ことがあったのかなと。

食えない、というのは大変なことです。食えないと人は死んでしまう。今時そこまで追い詰められることは少なくとも、体調を壊す、元気がなくなる、動く気力をなくす。食べられないということは人の活動を停止すること。

一大事ですよ。
多分彼らは「食べていない・食べられない」ということをそのように捉えているのではないかな、と推察。

そんな一大事に、パン半分は体裁が悪いとか、そんなこと言ってる場合じゃない。とにかく食うのが大事、ということを優先させた結果が、手持ちの食べ物を躊躇なく分けようとしてくれるということにつながるのかな、と。

そもそもホーチミンの人に限っていえば、食べ物を分けてくれることに躊躇がない、とよく感じる。実際頂き物をよくするし、馴染みのお店に顔を出すと、食べてる自分のおやつを「これ美味しいから持って行きなさい!」とか言って、ライチ1枝とか渡されて、これから人に会いに行くのにどーすんだこれ、となることなんてザラなんです(笑)

食べることも大事、だし、美味しいものがあったら人にも分ける。楽しんでもらう。そうすることを躊躇しない人たち。わかる、わかるよ。私も美味しいものを見つけたら、たくさんの人に楽しんでもらいたいと思うもの!

だから断れない。彼らの気持ちがわかるし、とても嬉しいから。
というわけで、ハイアットのカフェでの打ち合わせにライチ1枝を握りしめて登場したことがありました。こうなったら恥ずかしがってる場合じゃないんですよ。初対面の打ち合わせ相手に「ライチ、食べません?!」と勧めて乗り切りましたよ。うん。

an com chua?の温かみ

そんなわけで、an com chua?は挨拶の一つです。慣用句的に使われることもあれば、単に相手との会話のきっかけをつかむ手段なこともあるでしょう。

でも、文字通りの意味で聞いてきていることもあり、万が一にも相手が食べていない、なんてことであれば、自分が持っているものの中から分けられるものを手渡してくれようとする。

そんな優しい温かい気持ちがこもっている挨拶だと思うのです。

そんな優しさのこもった挨拶を日常の中で何度も交わせるホーチミンに住めるということは、とても幸せなことだなぁとしみじみ思う。そして自分も「まだご飯食べてないんだー」という人が目の前にいたら、もしくは別のことで困っている人がいたら、自分のできる範囲のことでいいから、躊躇なく何かを差し出せる人でありたいなぁ、と思うのです。

というわけで、これを読んでくれたみなさん、an com chua?

2020年1月2日
ちぇり

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