【エッセイ】死にたいんじゃなくて、死んでもいいと開き直って生きてみたいだけ

大学受験を翌日に控えた夜。
俺は勉強するでもなく、公園のベンチに座っていた。
いろいろと理由はあるけど、要するに全てが面倒臭かった。
勉強したくなくて、何かしたいとだけは思っていて、かと言って明確にやりたいこともなくて、結局それって勉強したくないだけじゃね?とか思って、でもやっぱり何かしたくて、何かは分からなくて。
嫌でもそんなことを考え続けてしまうことが面倒臭かった。
死にたいけど、死ぬことすらも面倒だった。
孤独を演出するためにわざわざ公園のベンチに座っている自分すら、嫌だった。
こんなに苦しいなら、素直に勉強した方が楽だとすら思った。
なんとも滑稽な話だ。
おとなしく勉強していれば、もっと良い大学に入れて、より良い人生を送れていたに違いない。
でもあの頃の俺は、本気で悩んでいた。
何に悩んでいたのかもよく分からないけど、とにかく悩んでいた。
いっそ誰かにレンガとかで頭をぶん殴られて死ぬのが一番楽だな、とか思った。
死ぬことすら他人まかせ。
それでも思考は止まらない。
結局その日、レンガを持った猛者は現れなくて、そのおかげでなんとか今日まで生きている。

先に言っておくと、今は死にたいとか全く思わない。
厳密には、あの頃も思ってなかったのかもしれない。
「死にたかった」のではなく、多分「待っていた」だけ。
死んでもいいや、と開き直れる瞬間を。
「開き直る」とは一般に、あまり良い意味で使われることはないけど、俺は全くそうは思わない。
開き直った人間は強い。
後先も人の目も気にせず、大胆不敵に行動して、行動するから結果が伴ってくる。
そんな人間に心底憧れていた。

じゃあ、そうすりゃいいじゃん。
いやいや、そうじゃないんだって。

俺のような意志薄弱児は、自力で開き直ることができない。
自分を変えてくれるような劇的な出来事に出会わない限り、自分を変えることができないのだ。
たまに女優とかが「芸能界には全然興味なかったけど、たまたま原宿でスカウトされてデビューしました」と言っている。
ああいうのマジで羨ましい。
だって、勝手に人生変わっちゃってんだもん。
もちろんそこには天賦の才とかエグい努力とかあるんだろうけど、大事なのはその「キッカケ」の部分で。
俺みたいな人間が行動するには、劇的かつ運命的な動機が必要だ。
「俺にはこれしかない」と思わせてくれるような、劇的な何かが——。

でも、なまじ27年も生きてきちゃうと、そんな出来事は全く訪れないということに気付く。
だから、自分で無理やり動機を作って行動しなければならない。
何かを作るのも、誰かと出会うのも、朝起きるのも風呂に入るのも、全部俺が無理やり作った動機の上に成り立っている。
正直、まだ全然足りていない。
焦りしかない。
それでも、毎日そうやって生きていくしかない。
そして、今も心のどこかで、劇的な出来事を探している。
「待っている」から「探している」に変わっただけでも、大きな進歩だと思う。
そう思うことにする。

余談だけど、Mr.Childrenの「天頂バス」という曲に、こんな一節がある。

「明日こそきっと」って戯言ぬかして
自分を変えてくれるエピソードをただ待ってる 木偶の坊

俺がこんだけダラダラ説明したようなことを、桜井さんはたったの2行で、こう表現した。
これを初めて聴いた時の、レンガで頭をぶん殴られたような衝撃は、今でも忘れられない。

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