【エッセイ】もし俺に「肛門書道」の才能があったとしても、たぶん一生気付かない

「自分には何の才能もない」と嘆く人へ。
そんなことはない。
誰にだって、ひとつぐらい才能はある。
ただ、それが「肛門書道」である可能性も、ないとは言えない。

肛門書道とは、ケツに筆を突っ込んで文字を書く書道のこと。
無論、俺が適当に考えた。
もし自分が、手よりもケツの方が字を上手く書けるとしても、それに気付くことはほぼない。
実際にやってみたとして、やっぱり手の方が上手かった時の虚無感を想像すると、やってみようとも思わない。
だが、自分には肛門書道の才能があるかもしれない。
つまり才能とは、あるかないかじゃない。気付くか気付かないかだ。

例えば勉強の才能があったとして、それに気付ける可能性はすごく高い。
誰しも小さい頃から、勉強は必ずさせられるから。
スポーツの才能も見つかりやすい。部活動があるから。
それら「見つかりやすい才能」を持って生まれた人は、案の定その才能が早い段階で見つかり、伸ばし、学者やアスリートになっていく。
無条件で賞賛される才能。
歌の才能はカラオケに行けば見つかるし、料理の才能は台所に立てば見つかる。
では、肛門書道はどうか。
学校に肛門書道の授業はないし、肛門書道部もない。
万が一、友達とふざけている最中に、偶然ケツに筆を突っ込んで文字を書いたとして、そしてそれがめちゃくちゃ上手かったとして、その才能を伸ばそうと思わない(ウエスPなら話は別だが)。
親に見せても褒められないし、学会の権威にはなれない。ましてオリンピックにも出られない。
だが勉強もスポーツも肛門書道も、みな等しく「才能」であるはず。
その価値は平等であるべきなのに、種類によってこんなにも待遇が違う。
それが才能というものの本質だ。

確かに、この才能欲しかったなーというのはある。
面白い話を書く才能とか。
でも才能ってたぶん、人が0から始めるものを、もともと10から始められるとか、そういうものだと思う。
それが20だったり30だったり、はたまた90だったり、差だってある。
それを100にしたいと思うなら、才能のある人間だって努力をしなければならない。
ということは、初めは0であっても、めちゃくちゃ頑張れば100になれる。
スタートが違うだけの話。
だとしたら、自分に持たされた肛門書道の才能を嘆くよりも、好きなことをめちゃくちゃ頑張る方が得策だ。
この世には「ウサギとカメ」という素晴らしい寓話があるじゃないか!
それでも才能に固執して生きるというなら、試しに筆をケツに突っ込んで、文字を書いてみてほしい。
そして感想を僕に教えてください。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?