被害者と加害者がつながるには…

被害者の痛みと加害者の痛みの一番の違いは、痛みを導いた出来事をどのように自他に帰属するかにある。

加害者の方は、自分にしかその出来事を帰属せず、その出来事を「起きてはならなかった、これからは誰にとっても起こらないことを心底願う」と切実に感じる。

被害者の方は、痛みを導いた出来事を自分か相手に帰属する。相手に帰属する場合、相手を怒りの感情をもって責めるだろう(遠心的)。自分に帰属する場合、それはかわいそうな自分への同情となる(求心的)。後者については、誰も痛みを分かってくれないと思うが故に誰かから与えられることを望む(マゾヒズム)。

加害者と被害者が再びつながりうる方法とは何か。

加害者の「痛み」それ自体と「未来への望み」を、被害者が同様に分有することによって。

被害者からのアプローチがあり得るだろう。被害者には、加害者ばかり責めるのをやめさせ、自分ばかり同情してひいては自分を責めることに快楽を覚えるのをやめさせ、加害者や社会への想像力を与えなければならない。それは被害者にとって、心の奥底に響く「痛み」にならなければならない。

痛みは、身体の動きによる身体の記憶の痕跡から生じる。そして、動かないことからも痛みは生じる。動かなくても動いても痛みやってくる。
ただ、その痕跡から「後悔し続ける関係性」を反復し続けるのか、「希望のある関係性」を生成し続けるのかによって、痛みの形は変わる。

互いの身体がぶつかり合って生じた互いの傷の痕跡。この痕跡(痛みを導いた出来事)を通して、被害者と加害者がお互いにどのような関係性を築いていくのか。

痛みは、個々のものであると同時に、「私」の境界を揺るがすものでもある。すなわち、被害者が新しい「痛み」を感じること、彼らが出会った痕跡に新しい傷をつけること、そうしてお互いに、自分の自己の「私」を「許せる」こと、ここに、彼らがつながる極限がある。

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