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本当の孤立

11月18日 「原因はお前たちだ」をまた繰り返される。

父方の親戚は、病的なまでに考えが古く、甘く、目先のことしか見えない時がある。1人が、ではなく、全員が、だ。それは、そういう家の中で、そういう常識で育ったのだから、当たり前だった。

父親はそれに気付いていて、なかなか抜け出せなかった。抜け出す気もなかった。母親は、父親とその家族との様々なことが我慢できずに出て行った。私は母親と仲が良く、父親とは折り合いが悪かった。父親と母親、私と妹で4人で住んでいた時の父親の姿を、親戚は誰も知らない。知らずに色々と言うので、私も母親と同じく、ひたすら耐えて耐えて耐え続けていた。

この病気にかかる前の父親は、母親とのことも乗り越えようとしていた。自分の悪かったところを反省して、前に進もうとしていた。だから私もラインで連絡を取ったり、少しずつ隙間が埋まっていった。

私は、親が病気になった時と死ぬ時は、何があっても世話をしようと決めていた。何があったかは置いておいて、今まで育ててくれたこと、学費など金銭面でサポートしてくれたこと、留学など好き勝手させてくれたこと。感謝してもしきれないからだ。その時は、「許す時」だと考えていた。その時が、予定より早く、距離を縮める最中に、突然来てしまった。

父親は離婚してからも、自分の気持ちをあまり人に言わなかった。その分、私と同じように「書いて」発散するタイプだった。離婚の際の苦悩を書き綴った日記を、祖母が見つけてきて祖父と読んでいた。そこには5年前の、母親とのことを自分なりに消化する前の文章があった。妻に捨てられた、子供たちにも見放された、俺はもう生きていけない、と。

また同じ頃、叔母も父親とのメールを見返していた。何年も前のもので、日記と同じような内容が書かれていたそうだ。

欲しかったものが、見つかったのだろう。

それが今の父親が書いた文章でないことだとか、原因は全く不明な病気であるとか、全ての事実を覆してでも、彼らにはすがるものが必要だった。

彼らは母親を、妹を、そして私を非難した。病気は原因不明と言われているが、脳の病気なんだからストレスが原因だろう。その原因は、お前たちに見放されて、父親が寂しく生活していたからだろう、と。特に叔母からは、子供からそんな仕打ちを受けたら脳がおかしくなっても仕方がない、と言われた。ずっと一緒に住んでいた祖父からもこのことを言われ、とてつもないショックを受けた。あなたもわたしのせいにするのか、と。

私は耐えられなくなり、正直な思いを話したが、全く無駄だった。それもそうだろう。彼らは皆、「父親の家族」なのだから。何を言っても信じなかった。私と父親の微妙な距離感は、彼らには伝わらなかった。

私は、完全に孤立した。今まで父親のためでなく、自分がしたいから父親の介護や看護を続けてきた。しかし「ずっと思ってたけど、原因は...」そう言われた時、絶望した。最初から味方はひとりもいなかったんだ。何を夢見ていたんだ。私はこの家で許される存在であるはずがなかったんだ。そう痛感した。

伯母たちが作った夕飯を食べ、ベランダで煙草を吸って、深呼吸をした。大切な人たち数名にこの思いを吐露した。その後、私を恨む人たちの料理を食べたことがなんだかとても気持ち悪いことのような気がして、全て吐いた。吐いてすっきりした。

病室に戻り、2人きりになった時を見計らって、父親にこのことを全て話した。ひとりぼっちになっちゃった、どうすればいいかな、と。それまで唸って暴れていた父親が、私の方を見て静かになった。不思議だった。普段は目が合うことは滅多にないのだが、父親は私の目を真っ直ぐに見て、黙って話を聴いてくれた。そのあと何かを言おうとしたが、なんて言ったのかはわからなかった。この病気になってからの父親は、私の前でいつもと違う姿を見せる。そのことも、他の親戚は知らない。

頑なに父親を許せなかったことは、本当に悪かったと思っている。だがそれでも、簡単に父親を許すことはできなかった。それを分かっていたから、段々とわだかまりを取り除く努力をしている途中だった。

だからこそ今は贖罪の気持ちもあり、自分のできること、やりたいことをやってきた。それなのに、父親が施設に移る直前にこのことを言われて「何故今なのだろう」「何故そう思うのだろう」「何故私にそれを言うのだろう」と、悔しくて悔しくて涙も出なかった。

明日から、一体どうすればいいのだろう。先が全く見えなくなってしまった。一生分かり合えない人たちの中で、父親を看続けることはできるのだろうか。

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