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違和感の正体をつきとめる

10月18日 介護用品が取り付けられた家を見て、絶望する。

午前中、父親の洋服や寝るときのスウェットなどを買いに、一人で出かけた。父親が好きな色の、普段着ていたような安めの洋服を買って、自転車のカゴに突っ込んで帰ってきた。今後、簡単なひざ掛けがあると便利かなと思ったので、1000円ぐらいのものを退院祝いとしてラッピングしてもらい、それだけはハンドルにかけて汚れないようにして帰ってきた。

家に帰り、絶望した。義母の介護を経験している叔母が注文した介護用品の取付がすべて終わって、私たちの家は居心地の悪いものになっていたのだ。もちろんそれらの介護用品は絶対に今後必要になってくるものだ。叔母のチョイスも信頼できる。それは十分に分かっていたが、吐き気がした。父親が「帰りたい」と言っていた家とは違うものになってしまった気がして、違和感を覚えた。

玄関のステップ台と2本の手すり。トイレのつっぱり式の手すり。お風呂の手すりとオレンジ色のシャワーチェア。リビングに設置されたリモコン付きのベッドは、寝たきりになった父親の姿を簡単に映し出す。デパートで「一番高いものを下さい」と言って買ったという下着は、父親が絶対に買わないであろう白いランニングシャツだった。

ヤコブ病は進行が早い。もしも何かがあった時に介護用品を増やすようでは、遅い。それは分かっている。分かっているのだが、全てに違和感を覚えた。その正体が今日、分かった。

私は、「最高の環境で過ごしてほしいから」介護をするのであって、「最高の環境を用意してあげたいから」介護をするのではない。

なんだってそうだ。「美味しいご飯を食べてほしいから」料理を作るのであって、「美味しいご飯を作ってあげたいから」作るのではないし、「いい夢を見てほしいから」あったかいふかふかの布団を用意するのであって、「高くて良い布団で寝かせてあげたいから」高級羽毛布団を買うのではない。

「大きなひらがな表を買ってきて、しゃべることができない分、指さしで意思表示させてあげたい」
父親に「話すことのできない自分」を意識させてどうする?
「父親の稼いだお金を全部使ってでもいい思いをさせてあげたい」
自分の両親に何かあった時のため、子供の将来のために使う予定だったお金は?
挙げれば、きりがなかった。自分のために介護をして、何になる?心身ともに一番つらい患者に、もっとつらい思いをさせてどうする?

明日から父親を家に迎えるので、今日は私から家族にいくつかお願いをした。
まず、「やってあげようか?」ではなく「やってもいい?」と聞くようにすること。「やってあげようか?」と聞かれれば「別に、いいよ」と言いたくなってしまうし、本来ならできるはずのことができていない状態を無駄に意識させてしまう。「これ、私がやってもいい?」と聞かれれば、「うん」と答えるだけで次のステップへいける。
そして、「できない」という言葉を使わないこと。おかずが大きくて食べ方が分からない時は、本人が目を離したすきにこっそり小さく切り、フォークに刺しておく。「食べられないよね。小さく切ってあげるからね。」これが一番最悪だ。介護をしているつもりが、辱めて、苦しめている。いい思いをするのは「やってあげてる自分」だけだ。

私たちはプロではないから、いつでも過ちを犯す危険性があるし、慣れない状況で初めてなので、その危険性は極めて高い。だからこそ、家族のみんなには自分の意見を伝えておきたかった。玄関の2本の手すりも1本にしてもらい、ステップ台も外してもらった。車いすも小さくたたんで、目のつかない場所に隠した。逆に言えば、知識も経験もなく、変なプライドがあるだけの私にできることは、それくらいだった。

父親には、最期まで楽しく心地よく過ごしてほしい。だから私は、介護をしたいと言った。自分のための介護なんて、ただのエゴだ。献身的で優しい人ほど陥りやすいエゴなので、私は冷たく心のない人間なのかもしれないが、別にそれもどうでもいい。父親に、最期まで楽しく心地よく過ごしてほしいだけなのだ。

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