同じ土台にいる祖父母の存在

10月24日 叔母のことについて伯母に話す。

父親は夜、やはり眠れなかったようで、何回か飛び起きていた。朝方になってやっと落ち着いて眠りにつき、昼頃まで私は同じ部屋で寝ていた。

父親の妹(叔母)は、前にも書いたがヒステリックな性格をしている。家事をやってくれるし、介護の経験もあるので助かっている部分も多い。だが、「~してあげる」という介護へのスタンスや、自分を心配してほしいことが分かるような言動が、私は常に気になっていた。

とくに後者は、父親が倒れていっぱいいっぱいの祖母を、さらに心配させていた。例えば、「おやすみ」と言われて「おやすみ」と返せばいいものを、「安定剤飲んで寝るね。でも昨日も2時間しか眠れなかったから眠れないかも」と返す。買い物中の私と伯母(父親の姉)に、突然電話で「心配で心配で心を落ち着かせたいから、写経をはじめようと思うんだよね。実は友達にも同じ境遇の人がいて、写経を勧められたからやろうと思ってて、写経したありがたいお経を、お兄ちゃんの枕の下にしいてあげようと思ってね。」私はつまるところ何が言いたいか分からなかったので、「で、用件は何?」と聞いた。すると「だから、写経セットを買ってきて欲しいんだよね。」と言った。私たちはこの日、父親の洋服を買うために車でショッピングモールまで来ていた。ユニクロで父親の好みそうなラフなシャツを選んだ後でもう帰るところだったので、正直だるかった。

帰りの車で伯母に心中を打ち明け、私たちの気持ちが一緒だとわかった。特に伯母は、自分の母親(つまり私の祖母)への影響を心配しているようだった。不整脈で苦しむことの多い祖母は、ストレスや不安に弱い。いつも泣き出したい気持ちを抑えて明るくふるまっているのが分かる。自分より先に息子が倒れただけでも悲しみでいっぱいいっぱいなのに、娘たちも倒れたらどうしよう、と余計な心配をさせたくない。そう伯母は言っていた。

私は勢い余って、叔母から「病気の原因は妻と離婚して、子供たちとも上手くいかなかったことだ」と責められた話もしてしまった。きっと伯母は分かってくれる、そう根拠もなく思っていた。だが、違った。伯母は苦しそうにうつむきながら、「それは、私たちはそう思っちゃうよ。仕方ないよ。」と言った。とても小さい声だった。

対照的に私の祖父母(つまり父親の両親)は、出て行った妻や子供たちのせいだとは全く思っていないようだった。むしろ自分たちと折り合いの悪かった息子と、二世帯住宅でずっと一緒に暮らしていたこと、自分たちの育て方が悪かったこと、離婚の原因を作ったのは自分たちだったことを、ずっと後悔していた。祖母からは「あの時、私らがちゃんとしていれば、こうはならなかったのかね」と、何度も何度も懺悔を聞かされた。祖父は病気のことを知って、酸素ボンベをリュックに入れてやけに散歩に出かけたがったり、慣れない家事を手伝ってみようとしたり、明るいことや面白いことを言ってみたりと、ずっと落ち着かない様子だ。

私も、病気のことは母親や自分たちのせいだとは思っていない。孤発性クロイツフェルトヤコブ病は、100万人に1人の確率で起こるまれな病気で、その発生原因は完全に不明だからだ。それに、もし不治の病で余命が1年だからと言って、父親の悪い所がすべてなかったことになるはずはない。私の父親の記憶は、追加されることはあっても、塗り替えられることは決してない。

親が別れたら、子は自然と優しく自分をより愛してくれていた方に傾く。当たり前のことだが、伯母や叔母にはこれが理解できなかった。一方で、祖父母には簡単に理解できた。その違いは、同じ家で生活していたかどうかだ。

私の祖父母と両親、私と妹は、二世帯住宅で一緒に暮らしていたから、その独特な空気感というか雰囲気を身をもって理解していた。というより十何年にわたって、徐々に理解していった。一緒に住んでいないと、いくら口で「父親にも悪い所はあった」と説明しても、父方の親戚にはやはり分からないものなのだ。それが「家族」であるゆえの「盲目さ」なのだ。

私は今の父親を、心から愛している。手足もなかなか動かず、右手はつねに痙攣していて、動きが遅く力もなく、排泄や入浴にも私の助けがいるのに、そのくせこだわりが強く頑固で、夜中には奇声をあげて飛び上がる。それでも父親が大好きだ。私はずっと、生活を手伝わせてほしいと思う。いなくなって欲しくないと思う。それはやはり、お互いが素直になれたからだ。今、冷静にそんなことを思えるので、もしかしたら私たちはこうなる運命だったのかもしれないな、と思った。

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