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私を覚えていて欲しい

11月15日 父親はまだ色々と覚えていることが分かる。

父親が懇意にしていた保険の営業担当者が見舞いに来る。私は面識がないつもりだったが、私の顔を見た瞬間「あら大きくなって」と言われた。本当に昔からお世話になっていた方のようだった。

その顔を見て、父親は起き上がろうとし、保険会社の名前を言った。いつも「◯◯生命の◯◯さん」という呼び方をしていたから、恐らくそう言おうとしたのだろう。病気に倒れてから毎日一緒に過ごしている私が最初に聞き取れたが、やがて私以外の全員も聞き取れた。短時間だがはっきりと意識が復活したのを見て、時には家族以外の顔を見ることも大切だな、と思った。

父親は、私や家族、主治医が思っている以上に色々なことを覚えていた。

23日に出身大学の文化祭「外語祭」に行きたいので、父親のところに泊まることができない、という話をした時、とてもよい反応をした。「え!」と驚いたり、頷いたりした。最近、こんなことは一日に10秒あるかないかだ。

私は、学生時代にインドの大学へ留学した。日本の大学でウルドゥー語という南アジアの言語を専攻していて、インドでも同じ言語を学んでいた。その仲間を募って、外語祭で有志の語劇を演じた。私はなんとなく恥ずかしかったし、父親とあまり上手く行っていなかったので、「絶対来ないでね」と言った。父親は諦めずに見に来てしまって、劇中の写真が送られて来たので、少し喧嘩になった。そのことをよく覚えていて、外語祭の話をしたらにやりと笑っていた。

明日になれば、私の顔が本当に分からなくなるかも知れない。その恐怖から、父親に「他のことは忘れてもいいから、佳奈の顔だけは忘れないでね」と泣きついた。無理だと分かっているのに、私は何をしているんだろうと思いながら、何度も何度もお願いした。父親はその間、天井を眺めていた。

インド留学の帰り、父親が成田空港まで迎えに来てくれたときのことを思い出す。現地の水が合わず肌が真っ赤になったし、バザールで買った刺繍の服がかさばってスーツケースに入らないので、日本まで着て帰った。どうみても日本人に見えない姿を見て、父親は私だと気づかなかった。「パパ、ここだよ」と声をかけながら追いかける私に背を向け、父親は喫煙所に入った。私はショックで、泣きながら喫煙所に駆け込み、「娘の顔を忘れたか!」と父親を怒鳴りつけた。当たり前だが、私たちはとても注目されて、父親は火を点けたばかりの煙草を一口も吸わずに慌てて出て来た。泣きじゃくりながら「びっくりしたじゃん」と責めると、「うん」とだけ返しておろおろしていた。私は、とりあえず謝れよ、と思った。

帰りの電車で、2人で留学中の写真を見た。休暇中に行った遺跡の写真、お世話になっていた先生と撮った写真、お祭りの時の写真などを見せた。私は一方的に喋って、父親は珍しく本当に楽しそうに聞いていた。

こんなに早く、また「娘の顔を忘れたか」と泣く日が来ると思わなかった。そして、今回忘れられたら、二度とこの世で思い出すことはない。思い出すとしたら、それはこことは違う場所で、だ。

少なくとも今日の時点では、父親は私のことを忘れてはいなかった。興奮状態のときはもちろん、誰が誰か分かっていないだろう。その証拠に、今日も顔を何度か叩かれたり蹴られたりして、眼鏡が飛ばされ曲がったりもした。だが一旦冷静になると、いつもの父親の表情がふと戻ってくる。そして親不孝ばかりしていた私の顔を見て、複雑な、でも温かいような笑みを見せる。いつもの父親が帰ってくるのはたった5秒ぐらいだが、それでも私を覚えててくれるなら、せめてここで病気が止まればいいのに、と思ってしまう。本人にとってそれは地獄だと知っていても、やはりそう願ってしまう。

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