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わたしにとっての正解

11月12日 「家で看る」という選択肢を切り捨てる。

叔母はまだ納得していないようだった。「父親を家に帰してあげたい」と何度も何度も泣いていた。伯母は、冷静さを欠いた叔母に少しいらいらしているようだった。

主治医の話では、もう父親はおそらく自分がどこにいるかを分かっていないという。仮に分かっていたとしても、自分の足で歩けなくなって、寝たきりになって家の天井を眺めて、本当に「ああ、家に帰ってこれて良かったな」と思うだろうか。私たちは、介助があれば生活を送れていた段階で、父親を退院させ、家で時間を過ごすことができた。親戚や友人たちに会わせることができた。笑顔もたくさん見ることができた。それで充分だったのではないか。

今日が返事のリミットだったので、「施設または病院で父親を看たい」という旨を主治医に伝えた。叔母も同席する中、主治医は「1番現実的でご本人にとっても負担のない選択ですね」と言った。

「少し身体を動かすだけで大暴れする成人男性1人を、素人の手でお世話できると本当に思いますか。訪問看護師やドクターは呼べますが、到着まで30分ほどかかります。その間どう対処しますか。」

「結局、前回と同じように指示を待てずに、救急車を呼んでしまうのではないですか。そうなれば、移動が多い分ご本人にとっては相当な苦痛です。」

「最初にお会いした時のご家族のお顔と、先日の救急搬送のときの顔、まるで別人のように疲れ切っていました。この人たちに看護を続けさせてはいけない、と思いました。あなたたちにはこの先の人生があります。それを潰してまで、自宅で看て欲しいとご本人が希望すると思いますか?」

この段階になってもうちの家族で看るという選択肢は、家族の勝手な幻想で、ただの綺麗事に過ぎなかった。父親の意志と体調を、両方ないがしろにするものだった。選択に後悔はない。

父親は夜、物音に驚いて大きく暴れてしまい、それをきっかけに身体全体が跳ねるように動き、大変危険だった。病院のベッドの横に添い寝して、音がしたら抱きついて落ち着かせることを続けていた。以前より寝つきが悪くなったのは、私のことが段々と分からなくなってきているからかもしれない。笑顔も、もう殆ど見られなくなってしまった。

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