どこで看取るか、どこまでやるか

11月3日 父親のこれからについて、家族の意思をひとつにする。

嚥下が難しくなり、固形物はもちろん食べられないし、水分もとろみをつけたものしか飲めなくなった。口に入れてから30秒ぐらい経ってやっと飲み込めるが、長い時間口の中に含んでいると誤嚥の危険性があるので、吸引器で吸い出さなければいけない。1日に食べられるものはゼリーをこしたものをティースプーン10杯程度で、あとはとろみ付けしたアクエリアスやアイスクリーム、ポタージュをこしたものなどをティースプーン2〜3杯食べられるか食べられないかだ。起きて意識がある15分ぐらいのうちで、誤嚥が起きないようにほんの少量ずつあげる。ティースプーン一杯でも飲み込むのに30秒以上かかる。となると、1日に取れる水分量は限られてくる。

このような状態で水分を取るには、点滴が1番良い。ただ、リスクも増える。水分をとれば尿は出るが、同時に痰や唾液が多く出ることになる。本人の意識のない時に痰や唾液があふれ、自然と誤嚥が起こり、亡くなることも多いという。

このような状態にいる中で、「どこで看取るか、どこまでやるか」について家族で話し合った。結果、自然の状態のまま家で過ごし、自宅で看取ることに決めた。つまり、点滴で水分や栄養を流して、苦痛を与えてでも命を延ばすことはせず、水が飲めなくなったらその時はその時、ゆっくりだんだん枯れていく、ということ。

この場合、延命を行わず自宅で死亡すると事件扱いになるため、訪問医を決めておく必要がある。自然のままに、というのは全員一致の考えだったが、お世話になっている訪問看護師が主治医のアドバイスも聞いてくれることになった。最終的に主治医と家族で話し合い、方針が決まる。治療がない病気だからこそ生まれる大きな選択に、家族全員が何日にもわたって頭を抱えた。人の命を伸ばすか断つかの話だから、当たり前だ。

また、セカンドオピニオンの話は無しになった。かつて父親が指名した病院から指定された「セカンドオピニオン外来」の日時は、明日の朝9時半からだった。しかしこうしてカテーテルを挿入したことにより、動くことは難しくなったし、体の筋肉も徐々に硬直してきている。めまいも激しく、立ったり座ったりの動作にも2人〜3人の介助が必要なので、通院して医者から直接話を聞くのは不可能だ。何より、それだけ色々な危険を冒して医者の話を聞いても、今の父親には理解できないだろう。父親は、セカンドオピニオンの話をもう忘れていた。家族だけで聞きに行くのも、無駄に思えた。なぜなら病院から予約確定の電話が来た時、電話口で「本人に病名を告知していいか」を何度も確認されたからだ。もうわかっている事実をもう一度繰り返されるなら、その時間を父親のために使いたい。

もう父親は、長くないだろう。9月頭には仕事をし、頻繁に車で出かけていた父親が、10月の最後には寝たきりになった。なぜこんな病気が存在するのだろう?治療法が発見されていないのだろう?なぜ父親が罹ったのだろう?でも、世の中には交通事故や事件で家族を突然失う人もたくさんいる。その人たちに比べれば、私は幸せものだ。こうして分かり合い、寄り添い、心を整理する時間が与えられているのだから。

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