法律入門
世の中を動かしているのはお金か、それとも法律か。奇妙な問題提起だが、その答えを敢えて口にするなら、お金だろう。ただし、お金を用いる手段がひとたび法を犯してしまったなら、それは「アウト」。違法ともなれば、せっかく稼いだお金も無に帰すリスクを抱える。
法律とは、社会の規範(ルール)だ。みんなで定め、みんなで守る。日本にはすでに「2000」もの法律があり、それらを逐一覚えておくことは不可能だだ。それを知らないばかりに、法を犯してしまい、自分の財産を失った場合、洒落にもならない。そこで、だ。最低でも、何を知っていれば、法律の存在を予測しながら生きていけるのか。そのコツを、本稿で整理してみたい。法律の入門の、入門と言えるレベルの内容である。
しかも、法律とは、常に進化している。社会の課題を、どう解決していこうとしているのか。あるいは、既存の法律で対処できるのか。そうした観点をもちながら、法律を眺めてみるのが、よい緒となる。そのためにも、法律とはどんなものかを(ざっと)確認してみよう。
事実と解釈、権利と義務
法律とは、日常生活の一コマに対し、何らかの結論を導くものだ。誰かと誰かがもめて、法廷の場で争った場合などは、まさにこれだ。(現場では)事実として何が起こったのか。それに関わる法律の条文には何が書かれてあるのか。これらを咀嚼しながら、一定の結論が導き出される。前者が「事実認定」、後者が「法の解釈」と呼ばれる。なお、法律で言うところの「事実」とは、数々の証拠によって作り上げられていくものだ。それは決して、最初から存在している「真実」のようなものではない。
法の解釈についても同様だ。条文になっているのは、法令と呼ばれ、国家機関が定めたもの。法律や条例として多数存在する。これを現実に「当てはめ」てこそ、条文の存在意義が現れる。むしろ難しいのは、条文にはない慣習法が、法としての根拠になることだ。ときには、「条理」さえ持ち出される。さらに、裁判所が過去に示した判例も然りだ。これらの社会規範を並べ、当該案件を読み解いていく作業こそ、「法の解釈」である。ちなみに、上記「条理」とは、明文化された根拠のない中で、裁判官が悩んだ末に持ち出してくる、国民的常識というものである。「みんなも(何となく)そう思っているよね」と、心の中でつぶやいているはずだ。
法律の役割は、(国家権力を通じて)強制的に解決してくれること。何やら怖い表現になってしまったが、逆に言えば、国家権力以外が暴力などを用いて勝手に(揉め事を)裁いてしまうのは禁止されている。また(国家権力と言えど)、定められた手続きを踏まなければ、それこそ勝手にはできない。これらのことは「手続法」に定められている。重要なことなので、強調しておこう。わざわざ明文化した法律とは、国家の強制力を引っ張り出すための最終手段であり、僕らはそのずっと「手前」で、多くの問題に対処している。今日の民主的な国家は、最終手段へのプロセスを慎重に設計しており、安易な法的解決に至らないよう(=お互いが話し合いで解決するよう)、工夫している。さもなくば、2000もの法律に囲まれた僕らの生活は、地雷の上を歩くような恐ろしい日々になってしまう。
では、法律の存在をどのように予見すべきだろうか。法律は、各人の権利と義務を定めたものだ。権利を主張すれば(国家権力が)守ってくれるし、義務を履行しなければ(国家権力によって)罰せられてしまう。あなたの行為が、果たして「自由」にあたる(=社会が許容すべき)ことなのか、誰かに迷惑をかけて(=誰かの権利を侵害して)いないのか。あなたは、社会とあるいは誰かと約束をし、何らかの義務を有していないのか、果たしてそれを履行しているのか(履行していない場合どうなるのか)。それらのことを意識しておくと、法律の存在が(自然と)気になってくるはずだ。つまり、権利・義務が生じる(べき)ところには、法律の存在がありえる、のだ。
また、権利は必ずしも行使しなくていいものだし、義務と言っても「努力義務」で済む場合がある。これらの違いは、似て非なるものだ。裁判ではしばしば争いの焦点となっている。いずれにしても、権利や義務を(実体法によって)特定し、(手続法に基づいて)実施のための手続を完遂させる。ここまでのことをやらないと、法律は機能(=強制)しない。つまり、面倒な手続を経ないと、法律は強制力をもたない。(法律の存在に)過度に怯える必要はないが、集団生活を貴重とする人間にとって、その社会で生きる規範は、常に考えておく癖をもちたいものだ。その一部が、法律である。
「六法」と、そして行政法
さて、法律には3つの軸がある。民事と、刑事と、行政。いわゆる「六法」の中でも主役を占める三法だ。
[六法]
①民法、②刑法、③商法、④民事訴訟法、⑤刑事訴訟法、⑥憲法
ところが、ここに「行政法」がないのは、ナポレオン法典の翻訳の際、当時はまだ存在しなかったからだ。また「行政法」と呼ぶ単独の法典は存在せず、行政法とは、公務員たちに働いてもらうための様々な法律の総称である。逆に言えば、今日の行政(国家権力)とは、(原則上)法律なしには何もすることができない。
民事・刑事・行政と分かれている以上、その裁判の中身や運用の仕方も異なってくる。たとえば、刑事で有罪なのに、その同じ案件が民事では「責任なし」と判断されることもある。また、被害者は、刑事で(加害者を)有罪にできたとして、そこで(経済的に)得るものは(少)ない。民事で裁判を起こし、賠償を勝ち取らなければならない。
前段では、法律の役割を「強制」する力と表現した。ただし、具体的な強行法規もあれば、「任意法規」もある。たとえば、民法の多くは任意規定だ。損害を与えたら賠償しなければならない、そう書いてあっても、契約書では別途の取り決めをすることができる。「重過失がない限り、賠償義務を負わない」と当事者間で決めれば、民法のルールは適用されない。つまり、民間での約束事は、それだけ契約が大切になるのだ。これを「契約自由の原則」と呼んでいる。
あと、法律間には上下関係が存在している。一見すると、民法・刑法が最重要法規に見えてしまうが、法律を適用する上で優先されるのは、特別法である。たとえば、商法は民法の特別法である。すなわち、商法の条文が優先的に適用されることになる。もちろん、商法の規定が(原則上)民法に反していることはない。通常は、民法にて想定されていない個別・具体的事象を、商法で明文化しているようなものだ。
憲法が絶対視する人権保護
ここで一度、法体系の最高峰に位置する「憲法」に触れる。憲法の条文が、我々の生活に関わることはほとんどない。なぜなら憲法は、法律を決め、それを施行していく上で欠かせない「国家権力」について定めているからだ。これを、別の言葉で「統治機構」と呼ぶ。立法権・行政権・司法権の三つに分けられ、互いに牽制できる三権分立の仕組みを採用している。
もうひとつ、個々の法律が憲法には逆らえない考え方を定めている。それが、基本的人権の尊重。個人の意思が尊重され、本人の生命はもちろん、その身体や精神の自由、さらに(その自由には)各自の幸せのあり方を自分で決めていいことも示されている。「自由」を少し深掘りしておくと、身体を勝手に拘束されない移動の自由、精神活動にあたる表現・信教の自由、さらに、人生設計に関わる学問・職業選択の自由など、数多の自由が憲法によって保障されている。これらの自由は、古代・封建時代を通じて、権力者から長らく認められてこなかったことばかりである。つまり、我々現代人(近代の人々)が苦労して勝ち取ってきた人類的成果なのである
現代を象徴する、とても重要な権利が「自由」ではあるが、必ずしも無条件・無制限ではない。条文的には、あくまでも「公共の福祉に反しない」かぎり、となっている。また、わざわざ「国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない」と定める。ある人の自由が、他者の自由を、身勝手に侵してはならない、のだ。ここに、自由と責任の議論が出てくる。
憲法が、対外的な平和主義を掲げ、国内には国民主権を示し、そして国家の諸々のあり様を明文化したのは、極めて重要だった。権力者を縛るのが憲法の役割であり、国民の生命や財産を(権力者の横暴から)守ることが国家の使命だとした。行政の行為はすべて法律に縛られ、その法律はすべて国民(が選んだ政治家)によって定められる。憲法が後ろ盾となった法体系の中で、様々な行政法が機能し、権力(統治機構)の活動内容を決めている。
国民同士の争い
国民が直面するのは、何も、国家・行政機構に対してだけではない。国民同士の共同生活の中でも、お互いにうまくやっていかなければならない。そんな日々の生活の、揉め事を処断していくために登場するのが民法だ。特に、国民の財産を守り、身分を規定している。財産とはやや複雑で、自分の所有物(所有権)の他に、他人に権利を預けた状態のもの(担保物権)、そして権利主張が可能な状態のもの(債権)などがある。他者との財産のやりとりは、今日の我々に欠かせない(取引)行為だが、それらは契約で規定するのがいい。民法が(個々の自由・権利・取引について)事細かくルールを定めることは不可能だからだ。
かつては、契約があれば何でもいい、ことを逆手にとるような街金業者も登場し、世間を賑わせたことがある。民法では契約の自由を示していても、その契約には一定の縛りを設けている。たとえば貸金業法はそのひとつだ。人々を(結果的に)借金漬けにしていいわけではない。法外な利息も認めていない。違法な契約は、取り消すことができる。
また、現実の状況に合わせて、一方に大きな負担を課した法律もある。たとえば、「AV新法」がそれだ。アダルトビデオ(AV)への望まない出演を防ぐため、出演の契約成立から1カ月、撮影終了後から公表まで4カ月間空けて、ようやく作品を公表できる仕組みだ。また、作品公表した後にも一年間、契約を解除できる。これは、勧誘から撮影に至るまで、不当な手段で契約を強いられてしまいがちな出演者を救出する法律である。一見すると、事業者側に相当不利な法律だが、その後の出演者が負う生涯に渡っての苦しみを考えた上での、(ある意味)公平・公正な配慮だとされている。
民法が掲げる「契約自由の原則」はあくまでも、法律に反しない限り、との条件がつく。そこに様々な特別法が割り込んでくる。実情を客観視し、特別法の存在があるか否か、意識するようにしよう。
法律はなぜ例外を認めるのか
さて、法律全般の話に戻ろう。法律の条文で重要なことは、原則と例外を知ること。原則とは理想の状態を示しているが、それでも実社会においては想定外や多少のズレは生じるものだ。それを逐一ゼロから議論していては、世の中が回らない。法律論でケース・バイ・ケースと言われるのは、このことを指す。個人的には、例外から敢えて(裏返しに)原則を学ぶのがいい。たとえば、「緊急性が高い場合を除いては、上司の事前の確認を取る」と定められていたとしよう。このルールに即して争う場合、たいていは緊急事態のときの判断の是非が挙げられる。つまり緊急性の定義こそが、このルールでは焦点になってもおかしくない。
ところで、条文が定める法律とは、どこかで線引きをしたものだ。民法を例にすると分かりやすい。たとえば、時効について。何年かすると、債務・債権がなくなったりする。これは「例外」ではない。こんな制度をわざわざ認めているのは、(法律の)履行されない状態がいつまでも続くのは、「法的安定性を欠く」と考えられたからだ。違法だらけの状態を、国が放置しておかないこと。そのため(時効によって)合法に戻す仕掛けを採り入れた。
もうひとつ例を挙げると、「具体的妥当性の高い」場合だ。一見、違法に見えたとしても、これを違法として裁いてしまうと、むしろ問題が悪化してしまうと考えられる。そこで、法律の硬直的な運用に反対し、「例外」的措置を認めるよう迫っている。たとえば、独占禁止法を挙げる。「正当な理由がないのに(競争を阻害してはならない)」の表現が出てくる。つまり、競争を妨げる行為があったとしても、正当な理由があれば、違法にはならないのだ。多くの法律には「例外」があることを覚えておこう。例外規定こそ、裁判ではたびたび争点になっている。
会社という法人格
民法の特別法が「商法」。そこからさらに派生したのが「会社法」。社会の問題を解決していくため、法律はこうやって次々と派生していく。実は、この会社法は2005年に成立したばかり。たとえば、旧商法(改正前)が定めていた有限会社は、会社法の成立と商法の改正によって廃止された。会社法は文字通り、「会社」の設立・運営・管理の手続を定めている。商法が取引全般に関わる人々を対象にしていたのに対して、会社法は会社の仕組みに焦点を当てており、それだけでもすごいボリュームになる。
会社法が事細かく規定しているのは、(意外かもしれないが)会社経営の柔軟性を高め、機動性を向上するためである。なぜなら、規定の細かさとは、法律の不都合や不備をなくすことにつながるからだ。また、明治から続く商法に比べて、法律の体系も分かりやすく示されている。
会社法で最も重要なことは、独立の法人格を認められている「会社」が、権利と義務を有するにあたって、それに相応しい成り立ちをしているか、だ。出資者がいる(お金が集まった)組織・集団は、その出資構成者を適宜変更させながらも、ひとつの法人格をもって振る舞いを続ける。そこに不都合が出ないよう、事細かなルールをつなぎ合わせている。なお、会社法は、従業員との関係を示したものではない。あくまでも、(複数いるはずの)出資者と(ひとつの法人格の)会社との関係を、健全に公平に回していけるよう規定されたものである。
慎重には慎重に、「刑法」
「犯罪」という言葉がある。何気ない言葉だが、あらかじめ定められた「罪」を犯してしまうこと、だ。逆に言えば、法の不備や遺漏によって明文化されていない(犯罪)行為は、罪に問えない。これは「罪刑法定主義」と呼ばれる。慣習的な刑は排除し、後から定めた法で人を罰するのも禁止。また、犯罪を勝手に類推して拡大解釈をしてはならず、曖昧な表現で人を罰してもならない。どこまでも明確に、かつ慎重に、というわけだ。
犯罪が成立するための三つの要件。一つ目は、「構成要件」に該当すること、つまり明文化された罪に該当するか否か。二つ目は「違法性阻却事由」がないこと、すなわち個々の理由でやむなくそうなってしまったか否か。三つ目は、責任能力の有無。ドラマなどでも、よく精神鑑定が行われていたりするのだが、心神喪失者の罪は問えない。
いずれにしても刑罰とは、国が、人(受刑者)の生命や自由、財産を強制的に奪うものだ。本人への報いであり、他者への警告にもなる。また受刑者に社会復帰までの試練を与える意味でもある。これらの措置がなければ、犯罪者の出現は後を絶たず、社会は収まりがつかなくなるだろう。ちなみに、交通違反などの軽微な違反行為は、反則金が課される。「犯罪」には当たらない。刑法とはただ単に、悪いやつを罰するという乱暴なものではない。
刑罰を決める手続は、刑事訴訟法で定められている。警察官が集めた証拠をもとに、被疑者をどのようにすべきか意見を添えて検察官に送る。これを送検と呼ぶ。そして検察官が、これを起訴するか否かを判断できる。日本の検察は、起訴にした以上、有罪にすることにこだわりがある。
国の政策は行政法に反映
行政のあらゆる行為は(原則)すべて法律に依拠している。その法律群を束ねて、「行政法」と呼ぶ。ところが、そんな名前の法律はない。また(前述の理由により)いわゆる六法には含まれていないが、多くの法律が行政法に属する。たとえば、道路交通法しかり、食品衛生法しかり、建築基準法だって、行政法だ。行政法は、簡単に言えば、規制を設けるものだが、あまりに範囲が広く、網羅的に示す一般法が存在しない。1994年になってようやく手続法の部分で、一般法的な位置づけとなる「行政手続法」が誕生した。
行政とは、権力を持った側の一方向的な「作用」である。国や地方自治体等に属する公務員の方々の行為全般を指す言葉でもあるが、その行為が公正で、かつ合法であることを明確に示すために、「行政手続法」が設けられている。たとえば、申請に対する回答・処分、また許可取消などの不利益処分、改善などを促す行政処分、法令違反の是正処分など、多くの行政判断には、公正な判断が望まれる。それを担保するための「監視・修正」を訴えられる手続を定めておくことで、行政を(国民が)監督できる。
ただし、一般法であるため、逆に言えば、その手続が及ばない分野もある。たとえば刑事事件には(同法律をもって)関与できないし、刑務所や留置場(の収容)に関わることもできない。その他、税務の反則に関する指導、学校における生徒への処分、外国人の出入国判断についても、一般法で(本件手続法にて)それらを覆すことはできない。
繰り返しになるが(手続法を除けば)、行政法に、法典(一般法)はない。その結果、政府の政策や制度を実現させる、ありとあらゆる法律が、行政法の括りに入る。河川法、特許法、生活保護法、予防接種法など、いずれも公益を重視したものだ。それゆえに、「公益」によって犠牲を強いられる個人の利益を守るために、手続法が定められた経緯もある。主には「行政作用法」と呼ばれる、行政が何をなすべきか定めたものが、僕らのよく目にする法律群だ。それ以外にも、行政組織について定めた法や、行政の被害にあった人を救済する法も、行政法に括られる。
法律入門の総括
ざっと、駆け足で、法律全般を見渡してみたが、その本質は、社会規範のほんの一部、ということ。明文化し、国家の強制力を背景に執行するもの、それが「法律」である。それを、ひと握りの権力者が私物化しないような仕組みも整えてある。人類が歴史上学んできた知恵だろう。
法律は、(特定の)人々に対して強制するものでありながらも、それは(他の)人々の自由や尊厳を守るものでもある。色々な立場の人が共生するためには、両者のバランスを図る必要がある。民法のように、人々の利害対立を調整する法体系があれば、集団生活の中でやってはいけないことを定めた刑法もある。そして、人間社会の理想を体現していくために、国家の役割を増やしていく行政法に至るまで、「集団」を基調とする我々の生活をよりよくしていくための仕組みこそが、法律の役割だ。
法律の存在・有無を心配するのではなく、ある事柄や自分の行いについて、社会規範としてはどうあるべきなのか。そこから逆算して、強制力を加味した法律の必要性を客観的に考えてみると、必然と、法律の姿がぼやけて見えてくるはずだ。そこから(必要に応じて)、個々の法律や条例などを探してみれば、今までに見えなかった法律との距離感も、実感できるようになるだろう。おそらく、それらを日々やっていけば、いわゆる「リーガルマインド」が、あなたの中に醸成されていくのかもしれない。
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