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植物が変えた人類史

コムギが人類を操り、世界中に広まった。そんな見方が増えている。人類に農業を教えてくれた主食である地位にとどまらず、世界でもっとも繁栄した植物として今日、君臨しているのかもしれない。
冒頭画像は、本稿では必ずしも主役でない植物「トウモロコシ」だが、コムギにしろ、トウモロコシにせよ、個々の植物だけで、ものすごい量の内容が書けてしまう。そんな植物たちの魅力的な横顔をサラッと見ていこう。画像の引用元は「ナゾロジー」のサイトだが、トウモロコシの項(下記に目次)で示す。


コムギ

コムギが属するのは「イネ科」。発芽の際、一枚の子葉で出てくるため「単子葉類」と言われる。その特徴は、形成層がなく、太い茎ができず、植物自体も大きくはならない。いわゆる「木」にはならず、「草」に進化した。その成長はスピード重視で、森のないところ(=草原)に育つ。

植物のなかま | 10min.ボックス:理科2分野|NHK for School

イネ科の植物(たとえば、コメ・コムギ・トウモロコシなど)は、人間にとっての穀物になる。ところが、彼らは体内にケイ素を蓄えだした。葉の繊維質も多い。これでは草食動物たちが消化できない。その成長点も、(茎を伸ばさず)地面の傍に置いている。葉を上へ上へと押し上げ、成長点はあくまでも下に残す。食べられない工夫だ。

イネ科と呼ばれる植物は、世界に約一万二〇〇〇種あるとされている。これは、ラン科、キク科、マメ科に次いで種類が多い。イネ科の植物は、刈っても刈っても伸びてくるという特徴がある。たとえば、芝生に生えているシバと呼ばれる植物はイネ科の植物である。また、牧場で牛や馬が食べている牧草もイネ科の植物である。イネ科は、もっとも進化したグループ・・・イネ科植物の祖先はユリ科植物であり、ユリ科からツユクサ科植物を経て、進化を果たしたと考えられている。

イネとはどんな植物だろう|ちくまWeb

では、イネ科の植物は光合成した栄養をどこに置くのか。それが人間の食するタネだ。葉の栄養(たんぱく質)をなくし、硬いタネに集める。また人間に先立って、草食動物も対抗策を打ち出した。ウシ・ヤギ・ヒツジ・シカ、そしてウマなどは、微生物を体内に宿し、イネ科の葉を消化する。また大きな体で大量に葉を食べ、それらをじっくり時間をかけて栄養源に変えた。

人間は、イネ科のタネに着目した。しかも人間が選んだのは、タネが落ちない「ヒトツブコムギ」である。収穫し、タネを「脱穀」、煮れば食べることができる。また(タネなので)保存ができることも好都合。こうして人間は、農業を発明することができた。

ヒトツブコムギ|Wikipedia

農耕が始まったメソポタミアは、(教科書で言われているような)肥沃な場所ではない。しかし、そこで生活をしていくには農業を発明するしかなかった。砂漠に水路を引き、種をまき、かろうじて農耕により生命をつないだ。その結果、豊かな森では生まれなかった文明が、やがて誕生する。

コムギを栽培する地域には、家畜も生まれやすい。その理由は、草の生える場所で生活するために、人間が、草食動物の消化系を用いたからだ。

スピードを重視するイネ科植物のタネには、タンパク質や脂質が少ない。この栄養源によって、発芽のための膨大なエネルギーが蓄えられているのだが、これを形成するだけでも(植物にとっては)厄介だ。そこでコムギなどは、炭水化物に特化した。大きく成長しない植物にとって、炭水化物は手っ取り早いのだ。人間は、この炭水化物で十分だった。これを穀物として主食にした。栽培が容易で、収穫が安定し、長期保存にも適する。まさに人間の繁栄を支え、人間を越えた繁栄を謳歌しているのがコムギなのだ。


コメ

アジア圏では、コムギを越える存在感を放つのがコメだ。日本に入ってきたのは、中国の「越」国からだとされる。春秋戦国時代、越は呉に敗れ、山岳地帯に落ち延びた。そこで切り拓いたのが「棚田」だった。また、その一部は、海を渡って難民となり、日本列島に漂着。彼らが日本に稲作をもたらした。九州から東海地方までは、急速に広まったのである。

お米教室|中国四国農政局(農林水産省)

しかし、興味深いのは、縄文時代の東日本に、なかなかコメ(農業)は根付かなかったこと。農業は重労働であり、必ずしも豊かな生活をもたらすわけではない。水を引く灌漑や道具の制作、そして作物の管理まで含めれば、相当高度な知識の蓄積が必要だ。それに比して、縄文時代は豊かな植生が実現していた。農業とは、やむにやまれず採る手段だったのだ。

米・ごはんの歴史を調べよう|学研

さて、コメの特徴だが、驚異的な生産力を誇った。蒔いたタネの20~30倍の収穫があり、コムギを上回る。現代ではそれが100倍以上。また栄養価にも優れ、炭水化物の他、良質なたんぱく質、そしてミネラルやビタミンも含む。コメで補えない栄養素は、アミノ酸のリジン。日本人はこれを大豆で補った。つまり味噌汁である。コメが主食となり、コムギが必ずしも主食になりきれなかったのは、この栄養素の違いだった。

しかし、この優れたイネ科のコメの栽培に必要な条件、それは水に恵まれることだった。日本はむしろ水が多すぎ、平野部は常に湿地帯となりやすい。したがって、水が山をくだる途中で引き込む「棚田」こそが水田の始まりだった。水の流れを人手によってゆるやかにしながら、大地を潤し、地下水を涵養する。田んぼにあふれた日本の地形は、先祖から継承されてきた伝統的な遺産なのだ。

山城がたくさん生まれた戦国時代に、土木技術が急速に発達。これが棚田の普及に寄与した。さらに、江戸時代初期は、歴史上未曾有の新田開発が進む。限られた土地の中で各領主たちは、河川に土手を作り、平野部まで広大な田んぼに変えてしまった。その典型例が、徳川家康のお膝元、関東平野である。しかもコメは、江戸期を通じて貨幣の役割も果たす。経済を活性化させながら、飢饉対策にも備えることができた。

江戸の町あるいは、日本の各都市は総じて人口密度が高い。それもまさに、コメの生産性が高いことと関係している。狭い土地でも収穫量はますます伸びた。日本でコメが圧倒的な地位にあるのは、日本人が本当の「主食」として、コメの栄養価だけで生き延びてきたからだ。


コショウ、トウガラシ

ヨーロッパで、コムギが「主食」の地位になりえなかったのは栄養価が足りないからだ。そこで牧草を糧として、畜産が始まった。肉食である。肉は保存が難しい。乾燥させたり、塩漬けにしたり、そして当時は香辛料も活用した。熱帯原産のコショウはそのひとつだ。イスラム圏を越えて、インドからコショウを持ち込む費用はかなりのものだ。ポルトガルとスペインが、大金を投じて、海へと乗り出したのもうなずける。

歴史入門 大航海時代|古典教養大学

その大航海時代を経て、ヨーロッパにもたらされた大量の香辛料には、丁子・シナモン・ナツメグ・ジンジャなどが含まれ、コショウだけではなかった。香辛料がもつ辛味成分は、もともと植物が病原菌や害虫から身を守るために蓄えたもの。まさに気温の高い、湿度の高い、アジアならではの風土に備えていたのだ。

ちなみに英語では、コショウのことを「ホットペッパー」、トウガラシは「レッドペッパー」と呼ばれる。しかし両者は似て非なる植物だ。コショウはつる性の植物。トウガラシはナスやトマトと同じ分類。この由来は、コロンブスにある。彼はスペインの資金を得て、西廻り航路で、インドに向かった。彼の発見した新大陸(アメリカ)をインドだと思い込み、現地で得た辛味香辛料をコショウだと勘違いした。

新大陸のトウガラシは船乗りたちに喜ばれた。何しろ多くのビタミンCを含み、船乗りの壊血病予防に役立ったのだ。そのまま彼らはアジアにこの香辛料を紹介し、爆発的に普及した。インドのカレーやタイのトムヤンクン、中国の四川料理を見れば分かるように、栄養価の高い、発汗を促せるトウガラシは、コショウを越える規模にまで広まった。

トウガラシの辛味はカプサイシンがもたらす。人間の内蔵に働きかけ、アドレナリンの分泌を促して血行を促進する。正確に言えば、(味覚にはない)辛さではなく、「痛み」である。それが各内蔵を刺激し、(カプサイシンの無毒化や排出のために)身体中が大騒ぎするのだ。このときの脳は、エンドルフィンを分泌する。疲労や痛みを和らげるものだ。これが私たちに「陶酔感」を与え、癖になる快楽となっていく。


ジャガイモ

原産地はアンデス山地、つまり南米(新大陸)由来である。これが土地の貧しいヨーロッパに広まった。ドイツでは代表的な素材にまで普及した。標高が高く、冷涼な気候でも育つジャガイモは、雨季と乾季を乗り越えることができる。葉ではなく、地中に埋まっている貯蔵部位を我々は食べている。ジャガイモの芽や緑色に変色した部位は毒性物質(ソラニン)を含む。葉にも毒があったりするので、人類は(痛いを思いをしながら)イモ(の安全な部位)を食するようになった。ヨーロッパでは一時、悪魔の植物とされた時期もあり、醜い様や奇妙な特性が煙たがられた。

意外なことに、ジャガイモが大量生産するのは、政治の力を必要とした。食糧危機と度重なる戦争を経験したドイツだ。軍隊にジャガイモを常備させ、農民には生産を強要した。またジャガイモは豚の餌にもなった。こうして、ドイツにはソーセージとポテトという組合せの料理が誕生したのである。その後、ジャガイモはヨーロッパ中に広まり、冬季の食糧難を救った。三百年近くかけての普及だった。

ジャガイモの貯蔵性の良さが船乗りたちにも受け、世界各地に届けられる。日本では明治になり、肉料理と合わせることで大ヒットになった。食糧に乏しかったアイルランドでも、救世主となっている。そのアイルランド人たちが大挙して移民したのがアメリカだ。主食ジャガイモを襲った疫病が原因で、多くの人々が母国を捨てた。そしてアメリカの中での、アイルランド人の存在感をひと際高めた。


トマト

トマトも実はアンデス山地由来である。ジャガイモと同様、大航海時代を通してヨーロッパに伝わった。しかし本格普及には200年を経なければならなかった。主食になりえないトマトは当初、あまり重視されなかった。真っ赤すぎるその色も、煙たがられてしまった。

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トマトを食用としたのは、あのイタリア・ナポリ王国だ。当時からその用途はスパゲティのソースとなった。ピザにしろ、スパゲティにしろ、実は当時の貧しい人々が食していた粗野なものだ。トマトの(旨味を含んだ)絶妙な味わいが、コムギ料理に華を添えた。ついにこの形態が大ヒットし、アメリカではケチャップの誕生を迎える。気づけば、トマトの生産量は、主要な穀物(トウモロコシ・コムギ・コメ・ジャガイモ)と大豆に続く第6位。しかも今日では、その最大の生産国は中国であり、インドだ。まさに、人口に比して食べられている世界的な食材となったのだ。

ちなみに、トマトが果物と分類される理由は、文字通り「果実」の部位を食するからだ。他方、それ以外の葉や茎を食するのは「野菜」と呼ばれる。滑稽なのは、この分類がアメリカで裁判沙汰になった。なぜなら、トマトを果実とすれば、関税免除だったからだ。裁判の結果は「野菜」となった。輸入業者は渋々税を払ったのかもしれないが、トマトの曖昧さは興味深い。


ワタ

農業革命から数千年後、人類は工業革命を成し遂げる。その材料となったものが繊維だった。ワタ(綿)である。インド原産であり、古来から産業となっていた。その肌触りや暖かさ、さらに軽さに至るまで、人々を魅了し、やがてはヨーロッパに伝わった。当時、羊毛(毛織物)がその地位を占めていたのだが、ワタの伝来によって綿織物に置き換わっていく。植物由来の原料は、何よりも工業化(大量生産)に最適だった。

そもそも人類は、長い間、植物の繊維を身にまとっていた。アサ科の大麻、アオイ科のぼう麻や黄麻(=コウマ、またはジュート)、イラクサ科の苧麻(カラムシ)、アマ科の亜麻(リネン)など、様々な植物が繊維を取る原料となった。その他、雨合羽には稲のワラやススキが、雨傘にはカサスゲが用いられた。そして何より高級なものとして「絹」がある。絹は植物由来とは言えないが、昆虫のカイコが絹を吐き出すためにはクワを育てなければならない。いずれにしても、多くの人が着ていたものは、植物によって成り立っていた。

さて、話を戻すと、インドから輸入された綿布はイギリスの産業革命に火を灯した。布を織るための「飛杼」が発明された。糸を紡ぐ作業では紡績機が登場。こうして機械化が工場を生み、輸送には蒸気機関が誕生した。インドからの輸入はどんどん増え、イギリスの植民地化政策がどんどん広げられた。それでもまだ足りず、ワタの生産地はアメリカ南部に拡大した。このワタの生産が、アフリカから黒人奴隷を送り込む源泉となった。

インド:綿花生産者が直面する貧困の背景には?|GNV

日本にもワタの産地はある。瀬戸内海や九州の干拓地だ。ワタは塩害に強い。また、沿岸部は輸送にも便利だった。その名残は今でもあり、今治のタオルや岡山のジーンズなどは紡績が栄えた証である。そんな綿織物業も、総じて言えば、海外の安価な綿花を用い、かつては綿糸・綿布にて世界最大の紡績大国になった時期もある。ワタはかくも魅惑のある植物なのだ。


チャ

中国南部が原産の植物、茶葉を煎じて飲むことが、中国の仏教寺院で盛んになった。これを(煎じるのではなく)粉末にして飲むこと、それが抹茶である。これを日本に持ち帰ったのが臨済宗の栄西。チャを広めたことから、栄西は茶祖と呼ばれる。ところが、中国(当時は明)は、チャを庶民に広めるために、茶葉で簡単に飲むことができる「散茶」を推した。その結果、中国の抹茶は廃れてしまったのだ。

チャはその後、ヨーロッパに運ばれていった。収穫した葉を寝かした後、酸化させると赤黒く色づく。これが紅茶だ。収穫後すぐに加熱させれば(酸化させて)緑色が保たれる。これが緑茶。イギリスへは長い海路をゆくため、傷みにくい紅茶の形態が選ばれた。

薬効があり、抗菌成分も含むチャは瞬く間にイギリス中に広まった。貴族から、婦人ども、さらに工場労働者に至るまで。そしてアメリカでは、チャの密輸をめぐって戦争にまで発展した。アメリカの独立戦争である。その前哨線となった「ボストン茶会事件」で、大量の茶葉が海中に捨てられた。その後のアメリカ人は、浅く焙煎したコーヒーを、チャの代わりに飲むようになった。これが、いわゆるアメリカン・コーヒーだ。

ボストン茶会事件|Wikipedia

ちなみに、その後のチャの主流は二種類になった。ひとつは元々の中国種。冬の寒さや乾燥に耐えるため、葉を小さくして厚くした。温帯地域で主に栽培されている。もうひとつはインド(アッサム)種。熱帯では光合成に有利なよう、大きな葉になっている。中国の緑茶はアミノ酸の旨味を楽しむものであり、紅茶はカフェインの苦味を楽しむもの。イギリスは、最終的に中国を離れ、インドを用いて自力生産に舵を切った。


サトウキビ

かつての人類は森に住み、植物の果実(甘み)を食べるサルだった。その甘味を効率的に生産するために、サトウキビ(蔗糖)が見出された。これもまたイネ科である。しかし、3メートルを越える巨大な植物であり、収穫にあたってウマやウシは使えない。こうして労働力として奴隷が集められ、大量生産の仕組み(プランテーション)が築かれた。中米がその舞台となり、キューバはその生産拠点のひとつになった。

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砂糖が爆発的に広まるのは、紅茶との組合せである。チャに限らず、コーヒーやココアにも用いられる。また、甘い菓子も考案された。


ダイズ

中国原産のダイズは、日本に伝えられ、奈良時代には醤油や味噌の原材料として定着することになる。コメとダイズが、和食の根幹をなす。栄養的には、満点の組合せである。炭水化物とタンパク質、さらに(コメには少ない)アミノ酸のリジンを、ダイズに豊富に含む。つまり、ご飯と味噌汁だけでも相性はぴったりなのだ。

さらに、コメとダイズは自然破壊が少ない。水田は、山の上流からの水が栄養分を補給するため、土地が荒れることはない。また余分なミネラルや有害物質を、その水が洗い流してくれる。ダイズも、空気中の窒素を取り込むことができるため、痩せた土地で栽培できる。

ダイズが重宝されるのは、それを調理する技術が整ってからだ。そのまま発酵させれば赤味噌ができる。コメや麦の麹を加えれば白味噌。岡崎(徳川)や、甲斐(信州)や、伊達(仙台)では、軍事用の保存食として味噌作りが発達した。他にも、醤油はもちろん、豆腐や納豆なども発明された。

みそ大百科:味噌の歴史と語源|ひかり味噌株式会社

そのダイズが、今日、アメリカやブラジル(アルゼンチンやパラグアイ)で大量生産されている。そこには日系移民の努力があった。そして日本は、そのダイズをほぼ輸入に頼ってしまった。


タマネギ

古代エジプトのピラミッド建設では、労働者の腰に、強壮剤としてのタマネギがぶら下げられていた。その魔力はミイラづくりにも応用されていた。抗菌活性があり、防腐剤としてだった。また、乾燥に強いタマネギは、エジプトはもちろん、原産地の中央アジアでも保存・運搬に最適だった。

玉ねぎ|マーケットピア

タマネギの食する部分は「球根」ではあっても、根ではない。茎であり、葉である。日本にやってきたのは江戸時代。それでも明治時代に至るまでなかなか普及しなかった。どこまでいっても、調理法(の発明)が最大のポイントになったのだろう。


トウモロコシ

これだけ巨大な生産量を誇る食糧でありながら、明確な祖先種が見つかっていない、という。つまり、どのようにして生まれたのか、分からないのだ。食べる部分(粒)が種子であり、皮に包まれている。この実(種)は、人間に食べられなければ、どこにも散って(落ちて)いかない。古くから、アステア文明やマヤ文明と共存し、主食となっていた。

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トウモロコシの重要さは、日本人が穀物として見ているだけでは分からない。実は家畜の餌となったり、加工食品の中に用いられている。我々は間接的に大量のコーンを摂取しているのだ。たとえば、「果糖ぶどう糖液糖」と書かれていれば、トウモロコシのデンプン由来だ。近年では、石油代替燃料としての用途も注目されている。日本を離れて、世界的目線で見たとき、トウモロコシの偉大さは、もっともっと広がる。


チャーリップ、サクラ

中近東由来のチューリップは、十字軍によってヨーロッパに持ち帰られたという。その後、トルコでの品種改良を経て、オランダで大ヒット。厳しい冬を越えて、春に目が覚めるほどの鮮やかさで咲き誇ったのである。当時のオランダは東インド会社が大成功し、金融センターとして「絶頂期」にあった。有り余る資金は、なんと、チューリップの球根に向かう。お金が集まれば、価格が上がり、高値がつくから、またお金を引き寄せる。先物取引やオプション取引まで始まったオランダでは、ついに、存在しない球根にまで資金が流れたのである。

この「チューリップ・バブル」は、歴史に刻まれた人類の汚点のひとつだ。オランダの富は浪費され、一国の経済を地に貶めた。そしていよいよ、イギリスが、世界の金融センターとして立ち上がるのである。

他方、春の花として、一国の風景を飾っているのはサクラだ。稲作の始まる時期を知らせてくれる神聖な花として、日本人の宗教観を彩った。興味深いのは、中国を仰ぎ見る貴族にとっての「花」とはウメだった。歌集に登場する植物も、サクラではなく、ウメだった。それが徐々に、サクラへと移っていく様は、武士の時代に顕著になる。おそらく、その散りいく様に、己の覚悟を重ね合わせるのだろう。その象徴が、豊臣秀吉の催した醍醐の花見だ。サクラの見聞を、日本人の文化として定着させた。

サクラの中で、「ソメイヨシノ」は江戸時代に誕生した。「吉野」の名称は、(奈良とは関係もなく)ブランド名として売り出しただけのこと。江戸の染井村で誕生したことから、今日の名称がつけられた。この種は、成長が早く、手入れも簡単。葉が出る前に花が咲く。その花が非常に大きく、枝を隠すほど、美しい風景を創る。増やした苗木は、同じ性質をもつクローンとして、同じ時期に、花を咲かせて一斉に散る。まさに、武士の「散り際」の美学を増長するための花となった。

敷島の 大和心を 人問はば 朝日に匂ふ 山桜花

本居宣長
本居宣長記念館(三重県松阪市殿町1536-7)、ぜひ現地へ。

江戸時代の国学者だった本居宣長は、サクラを愛で、日本人の心だと形容した。生命の息吹の美しさである。ところが、その後、散り際ばかりが強調され、武士の精神や軍人の覚悟の象徴として崇められていく。ややもすると、日本の未来の悲劇を暗示することにもなってしまった。


とりあえず、以上の植物を採り上げてみたが、人類との関わりあいでみると、もっともっと書けたであろうテーマだ。それぞれの植物だけで一冊以上の文字量が書けてしまう、まさに科学と歴史の内容が詰まった話である。






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