科挙制度

中国の歴史をザッと見る方法

中国社会の根幹の仕組みを、日本人はついぞ、自国に取り込みませんでした。そのひとつが科挙です。社会の安定化装置として機能した科挙を、日本人は必要としなかったのかもしれません。
※冒頭画像は、科挙の風景を示したもののようです。CRI(中国ラジオ国際)からの引用です。

中国社会の中核を作った「科挙」

統一政権ができた古代中国では、徐々に貴族層が形成されるようになってきました。具体的には、前漢後漢という安定政権が統治した400年もの時間です。身分が固定されるようになり、王権以上に豪族の力が強まってきた時代でもあります。著者は、そんな時代のひとつの完成形が「九品官人法」だと指摘します。北周というあまり馴染みのない小国の仕組みでしたが、名前からも分かる通り、古代の周王朝の時代を範になす復古主義の政権だったようです。ところが、その後に登場する隋唐王朝のもとで、門閥の時代は終止符を打たれます。その革命的なツールが、科挙制度でした。

これまでの門閥・豪族を抑え、新興官僚とともに新しい国造りをしてきた唐王朝。科挙の仕組みによって、門閥たちはみずからの優位性を徐々に失っていきました。新興官僚は科挙に合格すると、率先して皇帝を支えようとします。なぜなら、旧来の門閥貴族たちが「敵」であり、皇帝こそが科挙を主催する救いの主だったからです。さらに時代をくだった唐宋変革期には、君主の力はますます強くなりました。東洋版絶対王政の誕生です。君主を支えたのは官僚です。モンゴル(元王朝)の時代にこそ一時途切れてしまった科挙の仕組みですが、やはりその後復活し、連綿と続いていきました。中国においての科挙とは、単なる任官試験ではありません。地域社会がまとまって地元の優秀な人材を送り出し、いずれ地元に恩返しさせるための、重要な橋渡しだったのです。明代、さらには清朝でも、科挙は継承されました。

実は優れていた「中華思想」の平和

もうひとつの話題。少し時代を戻しましょう。漢唐帝国の時代は、その全盛期において軍事的優位をカタチで示し、華夷秩序を遊牧民の世界に広げました。さらに時代のくだった宋の時代は、軍事的劣勢が明らかでしたが、外交の力で平和を維持しました。しかし、モンゴル軍が侵入し、外交力のみに頼る限界が露呈しました。次に成立した明王朝はこれを反省し、あらたな手法を採用します。それが、「朝貢」関係による新秩序です。軍事的な対立を避けつつ、外交によって君臣の関係を鮮明にする。これは実は平和秩序を保つための儀式でした。まず朝貢の返礼として、圧倒的な経済的見返りを提供します。この方法は、我々日本人(足利義満の時代)でさえ魅了され、明の臣下に(形式上)なりました。一般的には、自己中心的な思想と思われがちで評判の悪い華夷秩序(=「中華思想」)ですが、本当は非常に懸命な仕組みだったと思います。実を渡し、名を取って、結果的に平和を得たのです。ただ、儀礼的な朝貢関係にこだわるあまり、ほころびが徐々に生じます。そのひとつが倭寇でした。旨味の大きな貿易に魅了され、統制の抜け道を探ろうとした民衆たち。それに対し、最後まで華夷秩序にこだわった明王朝はやがて、柔軟性を有した北方民族の政権・清に打ち倒されます。

日本と中国、似て非なるもの:近代化の過程

そろそろまとめに入らねばなりませんが、日本では清朝のことをあまり学びません。同時代史で言えば、ヨーロッパの歴史の方がはるかに重要になってくるからです。当時のヨーロッパは多くの国が切磋琢磨し、外交力を磨いて、世界中での植民地獲得競争に邁進していました。戦争も辞さない姿勢で、他国と激しい交渉をするのは日常茶飯事です。他方、東アジアに君臨した絶対王朝・清の皇帝は、悠然としたものでした。突然やってきた欧米諸国の連中を、ハエのように扱いました。汚らわしく、野蛮で、粗暴な連中に見えたのでしょう。そんな両者が押し問答を繰り返している間に、武力衝突が起きます。それがアヘン戦争です。この戦争に清朝が敗北したことはさしたる問題ではありません。それよりも深刻だったのは、欧中激突という危機に至っても、清朝の対応策はうわべだけの「中体西用」にとどまったことです。意識を変えず、心も変わらない。要は、西洋の武器や設備を購入しただけのこと。この点は、「和魂洋才」を掲げた日本とは似て非なるものでした。

今日の新中国(共産党政権)は、1910年代の辛亥革命を出発点にしています。しかし、その後の40年、革命の成果が何もなく、軍閥たちによる混迷な期間が続きました。日本やロシアに領土の一部を食い物にされ、足元では度重なる民衆の蜂起もありました。社会を安定化させてきた科挙という装置はすでになく、また平和をもたらした華夷秩序は見る影もありません。ひとつの中国という論理を支えた柱が、歴史的に見れば、極端に弱体化してしまっていたのです。今日の共産党政権がことさら「ひとつの中国」を強調するのは、まだ見ぬ次元としての安定状態を欲してのことなのでしょう。


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