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水の都・東京を多面的に知ってみる

東京の前身・江戸の街は、徳川家康によって開かれた。幕府が開かれた頃の人口は15万人(1609年)と見られているが、参勤交代制度が始まると急増。享保年間(1716~1736年)にはすでに100万都市へと膨れ上がっていた。

これを支えたのが水道。多摩川を城中に引き込んだ。付近を流れる隅田川は標高が低いところを流れており、引くに引けなかったのだ。本日は、水を制し、水によって蘇る東京の魅力を、多面的に眺めてみよう。
ちなみに冒頭画像は、「東京の観光公式」サイトから借用した千鳥ヶ淵の写真だ。この淵がなぜ造られたかも、ここで明らかにしよう。

江戸城に水がやってきた

地元・町人の「玉川兄弟」が工事を始めたのは1653年のこと。多摩川の羽村堰を取水口にした。河口から54km遡った場所を選んだのには理由があった。多摩川は羽村でその流れを大きく右に変える。そこで取水口に勢いそのままに水を取り込んだ。

江戸時代の羽村堰 東京都水道歴史館展示からの印象図


羽村から小平を抜け四谷大木戸にまで至る43kmを、途中、多摩丘陵を越えて標高を維持し、そして標高差92mで城中に水を流し込む。その工事は素掘りでわずか8ヶ月。驚異の速さだったという。

玉川上水の歴史(小平市)
四谷から42km、玉川上水をさかのぼる :: デイリーポータルZ


東京にはなぜ坂が多いのか

国土地理院ホームページ(暮らしっく不動産経由)


西は青梅から、東は新宿あたりまでせり出しているのが武蔵野台地。地形図を見れば、台地は扇状に広がり、北は川越そして赤羽と至る荒川が、南は多摩川で区切れられている。川は台地を削り、東へ流れていく。台地の東端には削られた場所が無数の割れ目となり、坂を形成している。名をもつ坂は東京23区にて900以上ある。有名な坂のひとつは「富士見坂」。富士山が見える坂はたくさんあるが、その名前は今日にも十数箇所残っている。


坂の下は谷である。日本で一番有名な谷底は「渋谷」だろう。宮益坂と道玄坂が向かい合って渋谷のにぎわいを構成している。渋谷の発展は、明治以降、旧陸軍の施設ができて始まった。

渋谷 - 表参道間を走行する銀座線:渋谷付近で地上に顔を出す(Wikipedia)

宮益坂方面から来た地下鉄・銀座線は、渋谷にて地上に顔を出す。坂と谷が交錯する東京の象徴的風景である。その他、谷の名をもつ地名は、谷中、四ツ谷、市ヶ谷、阿佐ヶ谷、千駄ヶ谷、幡ヶ谷、茗荷谷、雑司が谷、雪谷、祖師ヶ谷。いずれもV字型ではなく、底の平らなU字状のスリバチで、人を集めている。

東京スリバチ学会に聞く、まちの面白さはスリバチにあり

東京のスリバチに多く見られる現象は、丘の上にかつて武家屋敷があった。広い区画がまとまるため、今日では官公庁や大使館、学校や病院など大きな建物になっている。一方、谷底の低地は町人が住み、農地として利用されていた。規模をなすことがなく、それが今日まで引き継がれ、低層の建物が並んでいる。


海抜ゼロに近い一帯が「下町」

城の東側に目をやってみよう。海抜ゼロメートル地帯と言われる低湿地帯に、荒川と新・旧の江戸川が流れている。満潮時の海水面と土地の高さが同じレベルになってしまう。洪水が発生しやすいばかりか、豪雨時の排水も容易ではない。

内陸を走る総武線の「海抜」が京葉線より低い謎(東洋経済より)

余談だが、荒川周辺が今日的にも洪水のリスクがある地域となったのは、もともとの低位地形だけが原因ではなく、大量の地下水を人が汲み出した影響もあり、地盤がさらに下がったのだとか。亀戸の辺りは海抜がマイナスになっている。したがって、川を運河にし、水位を下げるなどの工夫がこらされている。

話を戻そう。江戸時代に行われた対策は、江戸湾に流れ込んでいた利根川の流路を、千葉県銚子(太平洋)の方へ流れるように変更したこと。その支流だった荒川も、熊谷市久下で付け替えが行われ、利根川から切り離した。これらを「利根川の東遷、荒川の西遷」と呼んでいる。下記のサイト(東京毛建設協会)に非常に詳しい。

江戸幕府 60年かけ瀬替え、開削の大規模治水事業(東京建設業協会)


しかし、荒川の氾濫は明治になっても続き、明治43年の洪水は最大の出水だと言われた。これを機に荒川を分流する工事が行われ、岩淵水門と荒川放水路が設けられた。その放水路が荒川に、荒川が隅田川に名前が改められた。

治水を整えた江戸時代から明治にかけて、ますます人口を膨らませていく「大江戸」。それとともに増大する排出ゴミは、江東地区の低湿地帯に集められた。それは埋立地となり、明治大正期には、今日の月島・芝浦・豊洲・天王洲・晴海・東雲が誕生した。戦後には海上貿易の重視とともに港湾整備がなされ、品川・大井・青海埠頭が造成されている。ちなみに前掲した亀戸より、海岸部・木場の方が、標高は高い。


水運・五街道から鉄道へ

江戸は、まさに水運に支えられた大都市である。このテーマは単独で、いつか学びたい。日本橋を見れば分かるが、橋がある場所にたくさんの舟が行き交い、発着場も設けられた。江戸湾はもともと遠浅であり、海洋を渡ってきた船を中に入れることはできず、小舟に乗り換えていた。

その日本橋は、徳川家康が整備した五街道の起点になった(1604年)。ここから、東海道・甲州街道・日光街道(そして奥州街道)・中山道が各地に伸びているが、並木が植えられ、標準幅員も定められ、さらに砂利などで路面が整えられた。今日でも日本橋は、日本国道路元標が埋められた場所だ。

変わりゆく日本橋|まち日本橋


今日の東京を、近代都市たらしめている最大の要素は鉄道網だ。水路に取って代わり、車道とともに、重要な役割を果たし続けている。

鉄道と言えば、新橋~横浜間の最初の鉄道(1872年開通)ばかりがよく取り上げられるが、実際の庶民の足の役割を担ったのは馬車鉄道(1882年~)であり、その延長で登場した路面電車である。明治44(1911)年には市営化した。今日の都電の前身だ。営業距離は99km、1054両の電車を保有して、一日あたりのべ50万人を越える利用があった。それが昭和18(1943)年になると、総延長213km、乗客数は193万人まで成長していた。


これに対し、地下鉄も早々に開業している。昭和2(1920)年には浅草から上野の2.2km、わずかな距離からスタートした。その後の延伸では資金難の課題を抱えるが、三越など百貨店の投資を得て、上野から日本橋、銀座、新橋、そして渋谷までを開業させた。昭和14(1939)年、戦時中のことだ。

戦後、地上を走る都電の勢いには陰りが見られたが、それは決して地下鉄の影響によるものではない。自動車の普及、すなわちモータリゼーションである。しばしば交通渋滞を引き起こし、定時運行の妨げともなった。都電の利用者は激減し、昭和47(1972)年にはほとんどの路線が廃止になった。唯一生き残ったのは都電荒川線で、早稲田から王子を経て三ノ輪に至る特異な路線を走る。その9割が道路の上を走っていない点が幸いした。


東京市制の変遷

さて、東京の歴史についても振り返っておこう。江戸時代以前の江戸・東京に何もなかったわけではない。たとえば上野の湯島天満宮の創建は14世紀である。伝承ではもっと古いともされる。江戸築城で有名な太田道灌が、湯島天満宮の再建をしている。


また浅草寺は推古の時代、深大寺(調布市)は天平の時代に創建し、少なくとも関東には仏教伝来の跡が見て取れる。奈良時代になると、国分寺が全国に設置され、武蔵国分寺は最大級の規模を誇ったとされる。

時代が下り、「江戸」の地名が見られるようになってきたのは、太田道灌の前だ。2つの説がある。1つは、入り江の入口(戸)で「江戸」だ。もう一つは、江戸四郎と名乗った人名からの由来。その江戸の名を冠した城は、日比谷の入り江を臨む現在の位置に築城され(1456年)、海を見渡すことができた。当時の関東は鎌倉公方と関東管領が何度も対立し、道灌もそこに巻き込まれてしまう。彼の城を築く技術は抜群、兵の扱いは見事。歌を詠む才能もあり、彼の優秀さを示す逸話は各所に残っている。

徳川家康が江戸入りして以降、海水の排除と飲料水の確保が課題となった。まず日比谷の入江は埋め立てた。また、近くの川を堰き止め、飲料用のダム(千鳥ヶ淵)を設けた。さらに物資の確保のために道三堀を開削し、千葉方面からの物流ルートにした。水路を設け、その土であらたな埋立地を造る。家康が天下を制したのちは、全国から集めた人苦と資本を投下し、「天下普請」と呼ばれる大規模な都市建設プロジェクトを始めた。

『東京23区のおいたち』(特別区協議会編)より(PDF)

明治になると最初の大きな変化は廃藩置県だった。都心部には、現在の千代田区、中央区、港区、新宿区(一部)、文京区、台東区、墨田区(一部)、江東区(一部)の範囲に「15区」が置かれた。その外に、品川、内藤新宿、板橋、千住(以上、四宿)、また、荏原郡、南豊島郡、東多摩郡、北豊島郡、南足立郡、南葛飾郡(以上、六郡)。これらが1932年には「35区」にまとめられ、大東京市が成立する。

さらに、1943年にはこの東京市と東京府が事実上合併し、現在の東京都になる。戦後、かつての「35区」は22区に整理され、板橋から練馬が分離する形で、現在の「23区」に変遷した。


不幸な歴史を合わせもつ

東京を語る上で欠かせないのが災害である。江戸時代の「明暦の大火」(1657年)は、江戸の6割を消失させ、10万人以上の焼失者を出した。江戸城の天守閣が焼け落ち、再建されることもなかった。隅田川に橋のなかったことが被害を拡大させたとされ、災害対策への出費を優先されることになった。このとき、計画的区画都市への改造や消防組織の整備もなされている。

幕末に江戸を襲ったのは、安政の大地震(1855年)である。武士・町人を合わせて7000人以上が亡くなった。ここにコレラ(1858年)の流行や開国にともなうインフレが続き、庶民の生活を圧迫した。案外、討幕の機運はここから生まれたのかもしれない。

そして最も悲惨を極めたのは二つ。一つは関東大震災(1923年9月)。相模湾北部を震源としたマグニチュード7.9の大地震。死者・行方不明者は10万人を越え、犠牲者の9割は火災で命を落としている。もう一つは米軍による東京大空襲(1945年3月)。民間の家屋を対象とした無差別爆撃だった。原爆を除けば、最短時間で起こった最悪の大量殺戮だと記録される。

この壊滅的な二つの悲劇が、結果的に、東京の都市計画を前進させるのだが、良し悪しではなく、歴史としてそのまま受け止めておこう。

「10万人死亡『東京大空襲』の翌朝、政府が何と言ったかご存じですか」より


きれいな水で東京に衛生を!

最後に再び「水」の話題に戻って締めよう。世界の大都市や東京にとって、深刻な課題は公衆衛生である。東京は幸い、ヨーロッパほどの伝染病被害を受けてなかった。それは、屎尿をみずからが回収し、肥料として用いていたからである。それでも明治になると、下水道整備は衛生の肝になった。リサイクルの流れが途切れ、汚水が井戸水に侵入することも起こってしまった。そこで始まったのが、神田下水の整備(1884年)である。

区部での下水道は100%普及している。

下水道の普及率(棒)と隅田川の水質(折れ線)

多摩地域でも人が密集しているところは100%だ。

下水道の普及率(棒)と多摩川の水質(折れ線)

目に見えて、東京の水質が改善され、水辺がしっかり「憩いの場」として整備されている点は、世界に誇れる状態だと言っていいだろう。荒川区に、日本で最初に整備された三河島処理場(現在の「三河島水再生センター」)がある。1922年に竣工され、まもなく100年になろうとしている。関東大震災を何とか乗り切り、いまだ現役だという。一部施設が、国の重要文化財にも指定されている。

国指定重要文化財 旧三河島汚水処分場喞筒場施設(東京都下水道局より)


下水道アドベンチャー|東京都下水道局


残念ながら、今の東京の新しい魅力を、オリンピックを機に世界に発信することはできなかったが、一冊の本(本稿・参考図書)をもってしても書き終わらないだけのコンテンツが溢れている。東京には、「橋」「堀」「川」のついた地名がやたらと多いが、水だけの話題をとっても、水都に相応しい話題性がある。ぜひ、今の厄介な時代がひと区切りついた後には、再び、東京の魅力あるコンテンツを、世界に発信してほしいと切に願う。


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