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本当の、憲法問題とは何でしょうか

法律を違反すれば罰せられます。違法行為ですから何の不思議もないですね。ではその法律の法律、憲法違反はどうでしょうか。「違憲」判決などは聞いたことがありますが、その結果、誰が何を罰せられたのでしょうか。まず、「違憲」とは、法令や行政措置が憲法に違反している状態のことを指します。つまり、法令を制定する立法府や、行政を執行する政府や自治体に違憲が突きつけられているのです。では違憲を受けた側はどうなるのでしょうか。懲役?
※冒頭画像は、集団的自衛権の憲法解釈を変更する安倍首相の発表会見からの借用です。文中にリンクあり。

憲法違反だったら、どうなのか

違憲判決の効力という議論があります。これまでも実際に「違憲判決」は出されてきました。そして対象となった法令についても最高裁判所の見解は示され、「本決定は本件規定が遅くとも(略)当時において憲法(略)に違反していたと判断するものであり(略)その前に(略)開始した事件についてその(略)時点での本件規定の合憲性を肯定した判断を変更するものではない」とあります。つまり、過去には遡らないという意味です。つまり違憲と判断される前に、多くの事例が、「合憲」を前提にした法律のもとに実施されていたことを考えると、「法的安定性」が失われ、無用な混乱が起こることを懸念されました。したがって、その違憲判断は、昔に遡らないのです。また合憲から違憲への移行過程でも、わざわざ「経過措置」を置いて、既存と新法との調和を図るのが通例です。そして新旧のバランスは、様々な観点を用いて、その都度判断されるようです。さて、ようやく本書です。新進気鋭の若手憲法学者として注目を集める木村草太氏と、元大阪市長・大阪府知事の橋下徹氏が意見交換する対談本です。タイトルにある、何が『憲法問題』なのか。それは、合憲違憲を誰も判断しないまま、ズルズルと半世紀以上、経ってしまったことです。この国は憲法を改正しないままに、様々な法律を(合憲の枠を越えて)変えてきてしまったのです。そこで橋下氏は、憲法裁判所を提案しています。いい加減、誰かが結論を出してくれという側の代表的意見です。他方、木村氏は、それが裁判所の権限を大きくしすぎることであり、逆に(人事等で)政治介入を招いてしまうと慎重論です。違憲だろうがそれを無視できてしまう現在を「物足りない」と見るのか、絶対的権限がなくても独立を維持しながら議論の方向を示せる現在をヨシとするのか。それによって両者の意見が分かれています。

自衛隊で考える、憲法の役割

憲法と言えば、日本では9条がことのほかクローズアップされます。特に、自衛隊は合憲か否かの議論があまりにも長く続きました。もちろん、これは条文に問題があるのですが、軍を他国のように特別視するか否かの問いかけでもありました。ほとんどの方は理解していませんが、なぜ、今の日本は自衛隊を海外に派遣できるのか。それは軍の派兵ではなく、行政官の派遣だからです。行政とはこの場合、警察を指します。自衛隊は確かに実力組織ですが、警察や消防なども実力組織です。警察も自衛隊も相応の武器を所持していますが、それだけのことであって、当該武器をはなから他人に向けることはありません。その行政組織が、海外に治安維持の目的で派遣されるのですから、これまた合憲だと言われています。しかし、木村氏はやや異なる観点で指摘します。もし海外にて、外国の主権を制圧するような役割を担う場合は、行政の範疇を越えてしまう、と。つまり、憲法の中で「軍の定義」を創設することが必要になるのですね。では、安倍政権になって解釈変更がなされた「集団的自衛権」はどうでしょう。これを合憲とする人は絶対的少数派になっています。しかし、安倍首相は、従来の「合憲」枠をあっさり覆しました。理屈はこうです。

安倍首相

ひとつは、個別的か、集団的かを問わず、自衛のための武力の行使は禁じられていない、また、国連の集団安全保障措置への参加といった国際法上、合法な活動には憲法上の制約はないとするものです。しかし、これはこれまでの政府の憲法解釈とは論理的に整合しない。私は憲法がこうした活動のすべてを許しているとは考えません。したがって、この考え方、いわゆる芦田修正論は政府として採用できません。(中略)
もうひとつは、憲法前文、そして憲法13条の趣旨を踏まえれば、自国の平和と安全を維持し、その存立を全うするために必要な自衛の措置を採ることは禁じられていない。そのための必要最小限度の武力の行使は許容される、こうした従来の政府の基本的な立場を踏まえた考え方です。

安倍首相が明確に否定したのは、従来の「芦田修正」論です。この修正論のおかげで、自衛隊の存続が可能になっていました。具体的に言えば、第1項で侵略戦争をしないと宣言し、第2項にて「前項の目的を達するため」と続く。つまり、侵略戦争の目的では、陸海空軍その他の戦力を保持しないと解釈したわけです。その他の目的では、いわゆる戦力を保持することも構わないし、ましてや自衛戦争の目的そのものは、どの国にも認められた固有の権利であると説明されました。ここに自衛隊が誕生します。そして72年、田中内閣がひとつの見解を出しています。憲法13条の「生命、自由および幸福追求の権利」が根底から覆される事態に限って、必要最小限度の自衛を認められるべきだと訴えました。これが個別的自衛権です。では、安倍首相は、なぜ、自衛隊を肯定する芦田修正を否定したのでしょうか。

ルールなのか、「当てはめ」なのか

実は、こうした憲法による枠設定(必要最小限度)は、その本来の役割でもあります。政策判断が暴走し、人権侵害や権力乱用が生じないように、一定の歯止めをかける。木村氏によると、かつての内閣法制局はそれを堅持し、国のルールとして示してきたのだそうです。安倍首相が嫌ったのはこれでした。他方、必要最小限度の枠を変更していくのが、「当てはめ」と呼ばれる考え方です。現実の事態に合わせて、自衛の手段を変えてもよいとするわけです。もし「当てはめ」論法を用いるなら、72年当時と今日とでは国際情勢がまったく違うと言え、憲法解釈を変更することが可能です。木村氏曰く、当てはめ論法は、枠がなくなり、たとえば海外の国際共同管理している日本の施設が攻撃された場合などはどうなるのか、という際限ない場面が生じると懸念しています。しかし、実際の実務を経験している橋下氏は、憲法学者のみではなく、実際の安全保障を考えられる専門家も加えて議論すべきだと主張しています。憲法的技術論ありきの木村氏と、現実的措置をどう実現するかの橋下氏とで、両者には大きな違いがあります。木村氏曰く、歯止めがなくなれば、法の支配ではないと添えました。

芦田均

憲法論の根幹とは、法の支配の貫徹

最後のテーマでは、法の支配を挙げましょう。法とは、固有名詞のないルールというのが暗黙の了解です。不公平を生じさせないためです。歴史的には、行政権と司法権ができたのち、立法権が誕生しました。前二者が暴走しないように成立したのが、立法権なのです。そしてその立法には徐々に多くの国民が参加するようになっていきます。国民の声を聞いて立法がなされ、その法律に基づき行政がなされ、その是非を問える場としての司法がある。これを三権分立と呼んでいますが、若干微妙なのは、司法のトップ(最高裁判所裁判官)人事を、行政のトップ(内閣)が指名することです。実際には、最高裁判所、最高検察庁、日本弁護士連合会などの推薦に基づいて、内閣が追認するそうなのですが、なぜ、法律としては、行政が司法の人事権を握る仕組みになっているのでしょうか。一応、選ばれた裁判官は(総選挙時に)国民審査にかけられることになっています。これを担保に、司法の独立性を守ろうという力学を働かせています。しかし、木村氏も懸念していますが、国民審査がなかなか浸透しない中で、時の政権が、人事に強く介入した場合、最高裁の政権忖度が起こってしまうでしょう。橋下氏は、アメリカのような公聴会を導入して、立法府のチェックを受けた方がいいと主張しています。

そろそろ本書のまとめにいきましょう。憲法とは、国民ではなく、権力者を絞るものです。政権は、憲法判断を重視しなければなりません。そしていかなることでも、民主的なプロセスを経る、すなわち橋下氏曰くの手続きを厳格に実施することが、立憲主義の意味です。護憲、すなわち憲法改正反対を立憲主義とするのは大間違いなのです。そして僕の意見を加えておきますが、何より憲法は修正しやすくしなければなりません。国民投票をはさむことが憲法改正であり、国会からの発議は国会の過半数を押さえていればできるようにすべきです。発議すらできない、だから解釈を変える(=ごまかす)という裏工作は、あまりにもお粗末です。そういう意味で、現在最初に憲法改正をするなら、真っ先にやるべきは、第96条です。残念ながら、護憲派と呼ばれる人たちは、96条改正反対を、憲法9条改正反対の手段としています。「変えない、変わらない、いや変えられない」、そんな愚かな状況から、まずは脱する。この課題こそが、本当の憲法問題だと思います。


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