見出し画像

自然科学を勉強するのが好きでも研究には興味がない理由

僕は数学や理論物理学に強い関心を抱いている、だから勉強するのは好きだった。しかし、研究になると話は別で何やっていいか全然分からず全くと言っていいほどやる気が出ないのだ。この記事では、その理由について自分なりに述べて行きたいと思う。

自然科学の研究は帰納的な側面が強いものである、実験して観察してそのデータを先行研究を参照しつつ解析して仮説を立て、再実験に望む。そのサイクルを円滑に回すことが研究の王道である(と僕は思っている)。

しかし、僕はどちらかというと演繹的に考える傾向が強く、知識や理解もない状態で研究をやらされると何やっていいか分からなくなる。到達点の見えない作業に対して兎に角耐性がないのだ。

逆に到達点や全体像さえ見えれば全力で頑張れるタイプでもある、公務員試験の勉強も到達点が明確だしやってて特に苦痛は感じない。

その一方で研究というのは到達点がなかなか見えてこない、それを教員から聞いてもそれが判ったら研究じゃないと一蹴されるばかりである。そう、僕は外部から与えられた任務の本質を理解するのがとにかく下手くそなのである。

それともう一つ、そもそも自然科学のあらゆる現象に対して僕は一度でも疑問に思ったことがあるのだろうか。正直な話教科書に書いてあることを疑うのは僕にとって難しいことだ。僕が疑問を持つとしたらそれはこれまでの長期記憶からくる違和感(ここに書いてあること僕が知ってるのと違うぞ)に依るものに過ぎない。

僕が自然科学に対して研究するには膨大なる知識と経験必要なのだと思う。少なくとも今現在の僕にそれをやる力はないんだと考える。しかし自然科学の分野で才能がある人の多くは若いうちから才能を見せているという現実がある。だとしたら僕にその才能はないと考えるのが自然なのだと思う。

自分の中にある疑問とは何かを考えてみたが、人の性格の分類であったり人類全体の行動様式であったりとそういった方向に対する興味関心の方が強いのかもしれない。

理系であり門外漢のはずの知能検査についてやたら知っていたり、他人の挙動を観察するだけで得手不得手とその程度が大まかにわかってしまったりと興味のある分野に対しては無意識のうちに深い知識が身についてしまっている(とはいえ知能検査とその周辺分野についてしか知らないわけだが)。

だとすると単純に自分の中の心の声と今現在の専門性の不一致が自分の不適合の原因の一つである可能性は否めないわけだ。自然科学には好奇心を持つことはあれどそれ以上の感情は湧き立たないのが正直な話だ。

しかし、僕が自然科学を必死で勉強したことは無駄にはならないと思う。そのお陰で就活や公務員試験において専門職の選考を受けることが出来ている訳だからだ。それに、自然科学外の分野を探求する上でも数学や自然科学の知識は大切だと考える。

これまでの勉強で培った知識で論理的に知を体系化するというよりか、直感に基く推論の精度を上げると言ったほうが正しいのだろうか。それに、論理力についても全く勉強しないよりかは向上するはずである。

僕は知識を深めるよりかは広げる方に興味がある。そのお陰か様々な人と出会って来たが、専門が違っていても話を合わせることは出来た様に思える。仮に浅い知識であろうが幅広い分野に精通していることは決して悪いことではないはずだと僕は信じている。

自分の好奇心の赴くままに天寿を全うすることができたらどれほど幸せなことだろうか。それに向かって邁進していきたいと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?