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帰納と演繹からの脱構築

僕は長年帰納的思考と演繹的思考の二項対立に囚われ続けていた。昨日、漸く自分の中で長年の疑問が氷解したのでそれについて述べていくことにする。

帰納とは、自分の経験や個別の事例から一つの結論を導く行為である。アニメオタク、アイドルオタク、鉄道オタクの友人がいる→3人とも趣味に対して金遣いが荒い→したがってオタクは金遣いが荒いといった形で結論を見出していくのが特徴だ。

一方で演繹とは、既に確立されている定理や普遍的事実を基に個別事例に当てはめていく行為である。オタクとは自分の関心毎に対して只ならぬ興味を抱く人種である→私の友人はアニメオタクだ→したがってその友人はアニメに対して只ならぬ関心を抱いているといった形で当てはめていくのが特徴だ。

当然両者には弱点がある。帰納は例外が一つでもあれば破綻してしまうからだ。例えばある読書オタクは中古で格安の本を買ったり図書館を利用するため殆ど趣味にお金を使ってなかったとしよう。その場合、オタクは自分の趣味に対して金遣いが荒いという法則は崩れてしまう訳だ。

演繹の場合は前提が間違っていればそこから導かれる結論も当然間違いである。今現在、オタクとは単にアニメやゲームが好きな人程度の意味合いで使われることも多い。故にアニメオタクを自称していたとしてもアニメに対して只ならぬ関心を抱いているとは限らないわけだ。

以上の理由から、帰納は厳密性はさておき、新たな法則を発見したり傾向を見出すのに有用だ。政府の統計資料はまさしく帰納に他ならない。

一方で演繹は、厳密性が求められる仕事において有用だ、プログラミングであったり臨床医学においては演繹の方が役立つことは多いだろう。

僕はこれまで、新たなアイデアは帰納と演繹のどちらからくるのだろうかについて思索を巡らせていた。結論としてはそれは帰納でも演繹でもなく弁証法によってもたらされうるのだということが判った。

弁証法とはAとBの良いところを組み合わせてCを導き出す行為である。ベーシックインカムを保証したら働かない人が出てくる、一方で実力主義にしたら一定数の人が見捨てられてしまう→そこでベーシックインカムを配布しつつ、働いた人にはそれに見合うだけの報酬が得られる社会にしよう。といった具合である(これ凄い共産主義的思考)。

そう、新たなアイデアとはA+B→Cといった化学反応的思考の産物なのである(化学科なだけにこの例えしか浮かばなかった)。帰納だけでは場当たり的な経験を数多く繰り返すことになるし、演繹だけではなにも新しい発想は生まれない。ある意味では両者のバランスと発展が必要とされる思考なのかもしれない。

演繹だけで考えると過去にない事例や通説にない出来事に弱い官僚的な人になるし、帰納だけで考えると考えるより行動といって知識を軽視する職人さんになりはててしまう。結局のところ新たなアイデアというのは弁証法の産物なのだと考える。

余談だが弁証法的思考に慣れ親しんでいる人は裏を返せばが口癖になりがち(だって対立する二つの概念のメリットデメリットを吟味しなきゃ両者を組み合わせてよりよい結論を導くってできないもんね)。

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