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「好き」を語り合えること

何をするにしても、私にとって「自分らしくいれる事」はとても大事な要素の一つです。一方で、私らしさをそのまま受け入れてくれる人と出逢えたり、そんな環境に恵まれた時には感謝せずにはいられません。なぜなら、それはとても貴重で稀有な事だと思うからです。

また、私自身に対して望むのと同じくらい、私が関わる相手にとっても変に取り繕うのではなく、ありのままで、居心地の良い状態であってほしいと考えています。「自然体にいれる事」それは見過ごされがちですが、人間関係において大切な要素の一つです。

「好き」を叫び合えるか

私にとって自分らしくいれるかどうかについては、「好き」が語り合えるかどうかが大きく関係しています。まったく違う興味関心があろうとも、私にとってはお互いの「好き」を語り合えるという事は一つの共感であり、相手への理解を示し、伝える方法です。

好きを語り合うこと、それは簡単かのように思えますが、無意識のうちに空気を読んでしまう日本ではそう容易いものではないと思うのです。「好き」は時に熱狂であり、偏愛にもなり得ます。独特であればあるほど、万人に理解されるものではないと言えるからです。

「好き」を語る上で何が必要か?

「好き」を語る上で必要な事、それは違いを認め合うという事です。独特で風変わりな少数派の意見を「面白いね」と言えるかどうかなのですが、自分の考えを変える必要はなく「こんな発想もあるのか」と、違いを楽しむことに変換していきます。

「違い」を祝福する事は、新しい視点を得る事に繋がっていき、結果的に多角的で豊かな目線を培う事ができます。もし一つの事を5つの角度から見つめ、考えを深める事ができたなら、きっと毎日の日常は味わい深いものになるのだろうと思うのです。

「違い」はポジティブで面白い

違いといえば、私の好きな言葉の一つに「Make a difference」という言葉がありました。これは英語で「影響をもたらす、重要な意味を持つ」というような決まりきった言い方の熟語で、中学生の時にこの言葉に出会った私は感銘を受けていました。なぜ私が感銘を受けたのか?「出る杭は打たれる」という言葉にもあるように、日本では否定的に捉えられがちな「違い」が、英語の中ではポジティブな意味として使われていたからです。

「違い」が賞賛される世界があるのだと知ってからというもの、「違い」はユニークで素晴らしいのだという確信に変わり、「違い」は面白いという私の価値観やアイデンティティの一部になっていきました。(因みに、出る杭は打たれると言うけれど、出過ぎた杭は打たれないという言葉も好きです。あ、これ、テストに出ます。)

面白がる賢人であれ

因みに、面白がる時の「面白い」は滑稽であるというfunnyではなく、興味深いという意味でのinterestingであるべきだと考えています。馬鹿にして笑う面白さではなく、そこには尊敬を念を込めた興味、または少なくとも理解しようと寄り添いの姿勢を持ち合わせていたいと思うのです。

変人であれる異空間

また、英語で「変人」を意味するWeirdo (ウィアドー)という言葉があるのですが、私自身、誰もがWeirdoであれる空間、コミュニティ(居場所)は誰しも必要だと考えています。そこには心理的安全性があり、Weirdoな事を受け入れてくれるという、それは相互での信頼の証でもあるのだろうと。

これには日本のオタク文化にも似ている節があり、海外でもオタクを意味する「nerd」はある意味その道の専門家であると、ポジティブな意味が増えてきています。(というのも、昔はあまり目立たなかったgeekなエンジニアが、IT化に伴い今やTech業界、世界の経済を率いているからという事にも付随するのですが。)

「夢」に潜んだ期待値と義務感

「好き」を自由に語り合える事がどうして大事なのか?それは夢をあーやこーや語れる若者がそう多くないと思うからです。学校や学生が集まるイベントでは「夢」をテーマにする内容が多く見受けられるのですが、一方で夢は大きくて、周りの期待値に則った”ウケの良いもの”でないといけないという無言のプレッシャーに晒されているようにも感じています。

そのためなのか、”夢”を持たねばと思っている人たちが、それらしい夢を探さなねばと必死になり、見つからずに焦っていたり、夢を持たないがゆえに、夢を持たなければと苦しむ人たちを何度も見てきました。夢持つ事、それはいつ何時でも本当に必要なのでしょうか?

夢の所有を押し付けられる若者

夢を持たない事を何ら悪く思う必要はありません。自分の人生は自分で決める事です。正解も間違いもなく、自分で決めたものを正解にしていくのみ。夢はなくても良いし、誰かの夢が自分の夢に変わる事もあります。自分だけで所有する夢ではなく、誰かと共有する夢。夢だって成長していくので、いる環境やステージに応じてコロコロ転じる事だって、ごく当たり前にあって然るべき事だと思っています。

夢を持たない若者と悲観的に語られる事もあるのですが、現実をよく見ているという点で大人であると思いますし、何ら悪い事ではないと感じています。

夢を奪われる大人たち

一方で、夢を持つ大人たちは「現実を見ろよ」と言われて諦めたりで、これは一体何なのでしょう。夢を持つ事には本来年齢制限なんて要らないはず。それは権利であり、個々の判断であり、自由であるべきです。むしろ様々なことを経験した後の大人だからこそ、夢が見えてきたなんて事もあるのではないでしょうか。

大人の背中を見て育つと言われる子どもたちが夢を抱けないのは、子どもたちが見つめている先の大人にあるのかもしれません。

自由に「好き」を育てていく事

好きで食って行くのが難しかった時代。これまでは夢を自分の「好き」と紐付けるのは難しく、人目を気にしがちになって、それらしい決まり文句を並べてきた事も多かったのではないでしょうか。ただ、今では「好き」を尖らせていく事が個性となり、「好き」を専門にして暮らすキャリアを持つ人も増えてきました。

だからこそ、心に秘めたる小さな「好き」の芽を育てていく事に私は希望の光を見出しています。夢という呼び名ではなくとも、それこそ人生を導いてくれると熱量となり、パッションや原動力に繋がるのだと思うのです。

「好き」の芽を大きくしていく養分は、「好き」を容認してくれる人の存在にあります。それは時に先生であり、友人であり、家族、パートナー、仕事先の人、チームメイト、はたまた近所のお隣さん、道端や旅先でこれから出会う人など、会う頻度や一緒に過ごす時間に差異はあれど、何らかの形の理解者であるはずです。

最後に

「好き」を語り合える事。その偉大さと意味の大きさは計り知れません。それぞれが居心地の良い空間となり、誰かが自分らしくいれるような理解者としてペイフォワードをしていく事。少しずつですが、きっとそれは巡り巡って縁となり、循環してまた還ってくるはずです。「違いを面白がる」、そんな価値観のお裾分けでした。


▼ 記事を書いた人について
ミドルネームから「ちぇる」と呼ばれている & ブログやSNSを通じて、日本と海外での発見や気付きを発信している人。何気ない光景を普段考えない切り口でみつめ、POPに社会を考えるきっかけを作ったり、日常に「問い」を持つ視点を届ける活動を行なっています。

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