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「私らしく生きる」を科学したい

こんにちは!アメリカ生まれ🇺🇸福岡育ち🍜とんこつラーメンに囲まれてすくすく育ってきた「ちぇるし〜」です🙋‍♀️ 好きなラーメン屋さんは、地元久留米にある大砲ラーメンです、どうも。(カップラーメンで全国展開もしている、注目度抜群の期待のエース🏃‍♂️🏃‍♀️💨)

気が付いたら、個人でお仕事を始めてから2年が経っていました。今だに個人の仕事で生き延びている事は周りの皆さまがあっての事なので感謝としか言いようがありません。ありがとうございます。個人でお仕事をしていると、時間とお金の使い方を再定義して見つめ直す事が何度も何度もありまして、いつも先の数ヵ月後、一年後どんな自分でいたいかを常に考えています。「どこでどんな人に囲まれて、どんな人のために私は生きていきたいのか?」...言わずもがなテーマが壮大過ぎる事は百も承知なのですが、やっぱり考えてしまうんですよね。お金の稼ぎ方は変えられても、時間は有限で絶対に戻ってこないので、その使い方への問いは私にとっての永遠の命題なのかもしれません。

そんな背景を踏まえて、今回は「私らしく生きる」とはどういう事なのかについて掘り下げていきたいと思います。具体的には私の価値観や経験を回想する事で、それらがどのように「自分らしさ」を定義してきたのか、どんな影響を及ぼしてきたのかを紐解いてみます。私の事例を元に、これを読む方々それぞれが「自分らしく生きる」という事を改めて考えてみる/ 再定義するきっかけとなれば幸いです。

「私らしさ」は一人では実感できない?

「私らしく生きる」= 「自分らしく生きる」
これらを言葉にするのは簡単ですが、実際にこれを体現するのは容易いものではありません。なぜなら、自ら放った「自分らしさ」を鏡のように写し返してくれる他者がいて初めて、「自分らしい」と自身が認識できるのではないかと思うからです。言い換えると、自分と他が違う事を認識できるのも相手があっての事で、且つそんな誰かや環境が自分を容認してくれる事で、人は初めて「自分らしく生きている」と実感するのではないかという事です。

(一輪のお花しか存在しない、そんな世界を想像してみてください。そのお花がどんなに美しかったとしても、何がどう美しいのかという事については他と比べられる対象があった方が、お花の差異がより際立って美しく思えるのではないか?という仮説をここでは立てています。一人では不明瞭な事も、他者がいる事でそれらが反面教師となる事もあれば、自分と相手の違いを初めて認識するきっかけにもなると考えています。)

差異を面白がり、当たり前を疑う

それではさっそく、「私らしさ」構成する要素でもある価値観についてご紹介したいと思います。私は幼い頃から人と違う事にこそに面白みを感じて育ってきました。特に教師である父からは当たり前である事を疑い、同調圧力にもかまけずに本来の意味をしっかり自分の頭で考えて行動する、そんな考え方の型を学びました。

例えば

「周りが勉強をやらないからやらないのではなく、周りがやってないからこそチャンスだと思って勉強をする。」

という同調圧力にかまけて、人に流されないようにする事。

「プリントは印刷面を内側に折る人が多いが、毎回わざわざ開いてどんなプリントかを見なくて済むように、最初から印刷面を外側にして折る。」

という何気ない行為に意味をもたらせないかを意識して、周りで既に実践されている方法をも疑ってみる事。

「テストの点数を付ける時は上から計算せずに、10になるペアを探して計算する。」

という原則を理解した上で、アレンジできる所があればちょっとした工夫を凝らす事など。

些細な事ではありますが、小さなアクションの積み重ねが大きな結果となっていくので、これらは私の生き方に大変影響をもたらした考え方でもありました。

少数派であった経験から広がる視野

加えて、私には「アメリカで生まれた」というバックグラウンドがあり、それだけで周りの人とは少し異なるという、やや浮いているような感覚を昔から感じていました。帰国子女と言えば聞こえは良いですが、実際のところは2歳で帰国してきたので英語は全く話せず、周りの友達からそれをからかわれた事もありました。けれど、アメリカで生まれた事や英語を話せない事を隠したり、コンプレックスにせずに伸び伸びとできたのも、父がいつもその違いが私の将来で大きく役に立つと明示してくれていて、私もそれを想像できたからでした。

それがあったからこそ「アメリカと日本に縁があるバックグラウンドを、必ず活かしていかねば」と、英語を話せなかった悔しい思いは益々英語を学ぶ原動力にも変わっていきました。単に「英語を話せるようになる事」が目標ではなく、「アメリカに住んで働く」という決定事項が当時から既にあり(笑)、そのために何をするかずっと考えては取捨選択してきました。そのおかげでもあり、中国やアメリカでのホームステイ、フィリピンの山奥で道を作る水浴び生活、アメリカやノルウェーでの留学を経験するなど、「外の世界をもっともっと知りたい!」と意識はより外へ向いていったのです。

因みに、私は高校まで公立の学校で教育を受けてきましたが、もし私がインターナショナルスクールなどに通っていれば、そんなギャップを感じる事は少なかったのかもしれません。ただ、特に国際的な環境を意識しない普通の環境で学んできたからこそ、少数派になった時の気持ち、どう馴染んでいくか、強みとしてどう活かしていくかなどの対処法やサバイバルスキルが、生の体験を通して培われていったのも事実です。(=体験は人生の師である)

私が小学校時代に経験したもののように、同じ日本と言えど、小さな異文化は多く存在しています。けれど、小さな異文化体験を積める環境にいたからこそ、私が今までに気付いてこれた事はたくさんあったのも事実です。濃い日本人としての感覚が分かるようになった事、幅広い友達もでき、視野も広げられた事など。それらの経験と観点は、私のキャリアの軸にもなっている海外のサービスを日本に根付かせていくローカライズという仕事で大いに役に立っています。

STOP!のっぺらぼう大量生産時代

そんな私は人と同じ事よりも違う事を好み、面白いとワクワクする人です。また、何らかの枠にはめられて判断される事も、誰かを判断する事も好きではありません。周りと同じように動き、自分らしさを殺した何者でもないのっぺらぼうな人が増えるよりも、周りとは違う部分をより引き伸ばしていき、イキイキとした「自分」を持つ人が増えた方が面白いと思っているからです。私がまだ知らない世界を知っている人との会話はとてつもなく刺激的で、自分自身の世界の見方が広がっていくようにまで思えます。常に自分とは異なるバックグラウンドや価値観を持つ人と接点を持とうとしたり、行った事がない場所へ行く、やった事がない事をやってみるなど、そのどれもが「のっぺらぼう」から「自分」を作り上げてくれる養分となります🌱 無駄な経験も意味のない事もなく、すべては学びに変換していく事ができます。他責で人を責めるのも、次の機会に備えた学びが得られてラッキーだと思うのも、捉え方、自分の受け皿次第なのではないでしょうか?

既存の型にはめずに、新しいカタチを発掘する

既存の型にはめた典型的な例で言うと、「日本人は〜だ。」「20代だから〜するべき」「お母さんなんだから〜当たり前だよね。」など、良く耳するフレーズではありませんか?

同じカテゴリーに属していで、一人一人が抱える背景に全く同じものはありません。だというのに、万人が同じという前提の元、勝手に展開されている当たり前論や判断には違和感が拭い切れないのです。そんな時こそ、疑ってみる事、少数派になる勇気を持つ、そんなアクションが時には必要ではないかと私は考えます。大多数が仮にそうだったとしても、それが万人が同じであるという根拠にはなり得ません。私たち一人一人が少数派の声に耳を傾けて聴こうとする、そんな姿勢こそもっと評価されるべきなのではないでしょうか?

「女性は〜だよね。」「男性なのに〜なの?」

また、このようなジェンダーにとらわれた型に関しては、男性や女性と言ってもその中のカテゴリーにまた様々な人が存在する事を忘れてはいけません。特に女性らしさや男性らしさに関しては、男女それぞれが男性ホルモンも女性ホルモンもどちらも兼ね備えており、その個人差はグラデーションだと思っています。男性だって時には泣くだろうし、女性だって侍みたいに潔い立ち振る舞いをしたって良い。「男性だから」「女性だから」ではなく、その人独自の「その人らしさ」のカタチを楽しむ世の中を作っていきたい、それが私が自分の子どもを含めた次世代に受け継いでいきたい未来の景色です。

環境が変われば「当たり前」も変わる

そして忘れないでいたいのが、世の中の思う「良い」と「悪い」の軸について。どんなに世間体を気にしたからと言って、自分が死ぬ時にそれが賞賛される事もありません。また、その良し悪しの線引きなんてのものは、今いるコミュニティを出てしまえば、180°変わってしまう事もあり得るのです。

例えば、私が生まれたアメリカの国では「人と違う事こそが良い」とされ、どれだけ他と異なる事で目立てるかという点で評価される事が多いです。出る杭は打たれる日本とは対照的です。これを上手く表す慣用表現で好きな言葉が二つあり、これを機にぜひ心のポケットにこの概念を留めていてほしいです。

まず、一つ目は「Make a difference.」です。直訳では「違いを生み出す」という意味ですが、実際には「変化をもたらす、影響を与える」という意味となり、何かしらの行動を起こすことで、ポジティブな変化、インパクトが大きい結果および影響を起こすニュアンスで使われます。

二つ目は「Stand out.」です。これは「目立つ、際立つ」というような意味で、多くの人がいる中でもそれだけ抜きん出ている、注目を集めているというようなニュアンスです。これも他と異なる事がポジティブな意味で捉えられている良い例ではないでしょうか?

「井の中の蛙大海を知らず」というように、今自分が見ている世界よりも実際の世界はものすごく広く、大きい事を決して忘れてはいけません。生まれた場所、育った場所が「自分らしく」生きれる場所だとは限らないからです。

世界にある様々な価値観や生活に触れるべく、時には長い時間を過ごした場所から離れてみるという決断だって立派な一歩になり得ます。行動する前はその一歩はものすごく怖く見えるかもしれませんが、そうやって誰もが同じ事を一度は思っています。今に絶望して「自分らしさ」が擦り切れてしまうくらいなら、「えいや!」と潔く新しいもんを叩いてみても良いかもしれません。

新しい経験をする過程を通して、人は何度でも生まれ変われるように感じているのですが、言い換えると、大きな一歩を踏み出す時に前と全く同じ人としては戻って来れない可能性も示唆しています。しかしながら、その変化を恐れるよりも祝福したいと思いますし、同じように喜ばしい事だとして後押ししてくれる人は必ずいると信じています。また、その過程で失う物もあるかもしれませんが、それでも残っている物こそが本当に大事な物なんだろうなと思っています。失われる可能性があったにも関わらず、それでもそこにある物/ いてくれる人がいたら、それは一生をかけてでも全力で大切にしていく理由となります。

結局「私らしく生きる」って何?

ここまで長々と綴ってきましたが、私が「私らしく生きている」と実感する項目をまとめてみました。

・「自分」という唯一無二の存在が無視されて、自分ではない別の何者かが「自分」として一人歩きしていない事。

・ありのままの「自分」という存在をわざわざ言葉にせずとも理解されている状態、嘘偽りのない「本当の自分」でいれる事と、その相手もストレスなく同じように思っている事。

・誰が決めたかもわからない社会の通説や当たり前の枠にはめられて、本来それぞれが持ち合わせている「自分らしさ」が殺されていくのではなく、活かし伸ばし合っていける事。

・良し悪しの判断軸ではなく、少数派の意見であったとしても、なぜそう思うのかお互いに聞く姿勢を持っている事。

・意思決定をする際に、狭い領域での世界観だけに影響されずに、伸び伸びとした決断ができ、それを応援してくれようとする理解者がいてくれる事、自分もそうある事。

これは私が思う項目の一例ではありますが、皆さんにも当てはまるものはありますか?どんな時に自分らしいと思うか、どんな人といると自分らしくいれるのか、どんな事をしてると自分らしいとイキイキするのか、いきなり想像しようとしても難しいかもしれません。そんな時には共感する考え方、似てるマインドの表現を切り取って、ぜひ心に留めていってみてください。いつかそれが積もって、自分の言葉で言語化して伝えられるようになるはずです。

終わりに、ポジティブなドーナツを託すよ

自分は何者でもないと思ったり、自分らしさとはなんだろうと考える人がいたら、もしかすると知らず知らずのうちに、ネガティブ思考のクセが付いているかもしれません。この記事を通して、少しでも「ポジティブ思考のクセ」のお裾分けができると嬉しいです。

それに関連して、最後に私の好きな言葉を添えて締め括りとさせてください。

The optimist sees the doughnut, the pessimist sees the hole.
(楽観主義者はドーナツを見て、悲観主義者はその穴をみる。)

悲観的な人はドーナツの穴の部分に着目し嘆くのに対して、楽観的な人はドーナツ自体を食べられる事に喜ぶ。コップに半分入った水を「半分だけ」と思うのか、「半分も」と思うのかという例に似た考え方です。ここまで読んでくれた皆さんには、ポジティブドーナツ思考をここで託したいと思います。ネガティブ思考が襲ってきたら、是非このポジティブなドーナツを思い出してもらえると嬉しいです🍩

それでは最後に、この記事のイイねとアカウントのフォローが励みとなります。もし良かったら、ポチッとしていただけると嬉しいです🙋‍♀️✨

それでは、また次回お会いしましょう👋ごきげんよう!

With love,

ちぇるし〜

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