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小説 抱きしめる

すみません、長いです。
note創作大賞に申し込むのでぶつ切りにしないほうがいいのかなと判断しました。
それでは本編へどうぞ。


「あの、もしかしてしんぶん氏?」
「おう、久しぶり。元気か?」
「うん。突然のDM、びっくりしたよ。」
「いや、色々調べてたら辿り着いた。」
「SNSって怖いもんだねぇ。」
「お前なんで本名でやってるんだ?調べようと思えば何だってわかるんだから。俺が善人でよかったな。以後気をつけるように。」
「名前考えたりするのが面倒でさ。」
「でも、まあおかげでこうして会えたからな。七年ぶりか、お前いくつになったよ。」
「三十九だよ。アラフォーになりまして。」
「何か雰囲気が変わったな。」
「太った。」
「そういうことじゃなくてさ、何というか。」
「化粧してるからじゃない?」
「ほうほう、そういうものか。」
「化粧で胡麻化してんだよ。取ったら見られたもんじゃないよ。」
「そうか、じゃあ化粧取ったら毛穴はありまくりか?」
「そうだよ、静岡みかんだよ。」

彼はしんぶん氏、私は静岡みかん。
これは七年前の二月頃、四季の森病院という精神病院で二人がお互いに呼び合っていたあだ名だ。
敷地内で孔雀やヤギが飼われている不思議な病院で私達は出会い、三ヶ月ほど共に過ごした。
入院中は化粧が禁止されていたため、土気色の素顔をずっとさらし続けていた。フェイスケアなどしようもなく毛穴が目立っていたのだろう、誰かが私のことをみかんちゃんと呼び始めた。かわいいあだ名だったし、気にしなかったが、なぜかしんぶん氏だけは静岡みかんと産地までつけて呼んでいたのだった。
「お前は愛媛でも、和歌山でもない、静岡みかんだ。」と決めつけた。

彼がなぜしんぶん氏なのかといえば病院では三紙の新聞を患者に提供していて、一紙が中央紙、他の二紙はスポーツ新聞だった。新聞が配達されて一番に確保し独占するのが彼だった。あまりにも真剣に読むのでスポーツ新聞にエッチなページが挟まっているのではないかと男性患者はみんな一日一度はスポーツ紙を開いて確認していたがそんなことはなかった。
そうして彼はミスターニュースペーパーと隠れてあだ名がつけられていたのだが、私は本人を前にしてしんぶん氏と呼んでいた。
ミスターニュースペーパーでは格好良すぎる、よって回文にしてみた。

「駅前で話すのもなんだ。近くにいい公園がある。散歩しがてら話そう。」
あいかわらず偉そうだ。入院中はよっぽどのことがなければ誰とも口をきかなかった。いつも仁王立ちして体格もよかったものだから王様と呼ぶ者もいた。しんぶん氏は不自然なほどゆっくり動いていく。
「どうしたの、足痛いの?」
「いや、荷物が重くてな。」

駅から少し行くと桜並木に出た。車道の上を桜の枝が重なりアーチのように覆っている。もうシーズンは逃したが満開の頃はさぞかし見事な光景なのだろう。
樹齢は大分経っていそうで無残にも幹が切られてしまっている樹もちらほら見受けられる。
私の家の近くでもよく見かける鳥がさえずっている。何という名前なのか興味を持ったことがなかった。余裕がない自分を恥じる。
少し傾斜のある道で私の歩くペースが落ちる。運動不足だもんなぁ、走るのは絶対無理だからウォーキングぐらいはすべきなのか。膝を痛めないようにしなくちゃ。
「この辺は緑が多いね。桜もすっかり散っちゃったね。葉桜もいいけど毛虫が怖いなぁ。私毛虫の毛のアレルギーがあるからさ。桜と言えばうちの母親が満開の桜を見て、あの花の固まり具合がカエルの卵に似ているねって生前言ってたんだけど、あれ以来桜が少し苦手になったなぁ。」
見慣れぬ街並みにきょろきょろしながら隣にいるしんぶん氏に語りかける。
「気持ちの悪い話をするな。俺まで桜が嫌いになるだろうが。」
「ねぇ知ってる?病院でさ王様って呼んでる人もいたのよ。しんぶん氏のこと。」
「王様ねぇ、アディダスもどきのジャージ上下を着ている王様なんかいるかよ。あれしか母親が用意できなかったんだよな、入院着。」
「態度が偉そうだったからだよ。誰とも口をきかない、新聞は真っ先に独り占め。」
「人間が嫌いなんだよ、仕方がないだろう。暇だったから新聞ぐらいしか娯楽はなかった。話すのはだるかったし、あの時は気持ちが混乱していた。入院するのは初めてだったし。」
「私はしつこかったから無理矢理話してたのか。よく相手してくれたね。」
しんぶん氏の病名は知らない。
入院中一度だけしんぶん氏の感情が激しく動いたのを見た。
私が中年の男性患者に左胸を強く揉まれて泣きながら逃げていた時に、しんぶん氏にぶつかったことがあった。
泣いている私にしんぶん氏は慌てて理由を聞いてきた。
痴漢に会ったことを告げると、「そいつ、どこだ?」と鬼の形相で探し出そうとし、看護師たちが慌てて止めに入った。
その時のしんぶん氏の怒りはものすごくて、男性の看護師が二人で彼を羽交い絞めにし腰に腕を回し走り出そうとする彼を制御した。しんぶん氏は顔を真っ赤にして叫んでいた。結局独房送りとなったのは痴漢野郎ではなくてしんぶん氏で、いつものクールな彼とのギャップに燃えてしまった。
普段は誰とも交流を持たない彼も私には少しずつ心を開いてくれたのかな、なんて妄想が止まらなかった。

入院中は少しいらいらして不機嫌そうな彼も現在は落ち着いて楽しそうに見える。

「この公園でいいか、羽虫が気になるがベンチに座ろう。」
背負っていたリュックサックから我が家にも届くフリーペーパーを取り出してがさがさ広げるとベンチの座面に敷いた。
「汚れてるかもしれないから。はい、座れよ。」
「ありがとう、細やかな配慮。」
「お前は話しやすいな。」
「そうかねぇ、どっちかって言うとコミュニケーション能力はないほうだと思うけどねぇ。」
足元に集まっては微妙に距離を置いてくる鳩たちにあげるパンくずを持っていないことが哀しかった。
「楽、何だろうか?」
しんぶん氏は呟く。
「そう聞かれてもね、んー、あの三ヶ月の日々があったから気軽に話せるんじゃないかな?」
「本当は個室で話したかったんだ。周りの奴らに会話が聴きとられると困る。」
「だったら、カラオケかどっかで話せばよかったんじゃない?」
「カラオケじゃ音がうるさくないか?」
「音しぼれるでしょ。つまみみたいなのがあるじゃん、あれをひねればさ、ボリューム下げられるし。」
「カラオケなんてもう何十年も行ってない。そうか、そういう手があるのか。」
今横にいるのは本当にしんぶん氏なのか。あの頃よりも大分痩せているし、黒かった髪の毛は明るい栗色に、眼鏡もかけていない。でもやっぱりわかるんだよな。骨格とか頭の大きさとか少し傾いている姿勢とかで。
「つきあっている奴はおらんのか。」
「パートナーはいないね。そっちこそ、どうなの。そのイメチェンの陰には女ありなんじゃないの?」
「人間嫌いの俺様にそういうことを聞くかね?気軽にイメチェンっていうけどな、体重減少は地道な節制の賜物だ。お前何キロ増えたよ?」
「言えるわけないでしょ、そっちこそレディーに気軽にそういうことを聞くかね。」
餌をあげていないのに鳩たちはなぜか二人の座るベンチから離れようとしない。鳩が集まる場所は磁場が狂っていると聞く。このベンチに方位磁石を置いたら、ぐるぐる磁石が回り役に立たなくなるのだろうか。
「黙っていれば、背も高いし、外見はいいんだからもてるでしょ。」
「人間の集まる場所にはとんと行かないね。だからもてるとか関係ない。もててもしかたない。」
眼をしょぼしょぼさせてむなしいことを言う。
しんぶん氏の言葉にあぁやっぱりこの人は変わってないと思った。
「静岡みかん、お願いがある。これから話すからお前にイエスかノーか判断してほしい。その間少し黙ってもらえると助かる。話が脱線するとこんがらがるかもしれない。最後まで聞いてほしい、いいか?」
しんぶん氏は眉間にしわを寄せた。
ただならない雰囲気にのまれそうになりながらも、
「わかった、いいよ話して。」
と答えた。
「俺はほぼ童貞だ。」
「はいあ?」
予定もしない告白にわけのわからない返事をしてしまった。
「黙って聞く約束だろう?俺は小さい時からくそ親父から殴られて育った。十六の時あいつより体力的に成長した時に反撃してやったけどな。で、お袋も親父に殴られてた、それを見て育った。血の繋がりって何なのかって殴られるたびに思ってた。自分の子供や嫁に手をあげてこの男は何が楽しいのか、お袋は他人なんだからとっとと離婚でも何でもすればいいじゃないかとも思ってた。別れてくれれば俺はもう殴られないで済む。でも時代なのか田舎だからか、よくわからんがお袋は親父と添い遂げた。俺は親父の葬式に出なかった。水飲んでいいか?」
いいよという代わりにうなずいた。
彼はリュックサックから二リットルのペットボトルに入った水を取り出してラッパ飲みした。そして話を続けた。
「それでだ、親父は肝硬変で死んだんだけどな、自分の手で始末できなかったことだけ後悔している。大学から家を出てこっちで暮らしていて実家には一度も帰っていない。お袋が心配して会いに来てくれていたんだが、もう歳だ。もうこっちに来ることは出来ないと言われた。で、俺は実家に戻ってみようかと思う。実家は宮城なんだがもうあっちで暮らすことにしようと考えている。故郷にいい思い出なんてないが、俺を世の中に生み出したお袋の面倒ぐらい見るべきかなと。案外まともなんだ、これでも。今さ、アパートの隣人と騒音問題で揉めてるしな。河岸を変えてもいい頃かと。このまま揉め続けたら奴と刺し違えてしまいそうでな。刑務所に入るのは嫌なんだ。今日もリュックに念のために包丁を入れてある、みすみす殺されるのもいやだろ。」
息を止めてしんぶん氏の話を聞いていたがさすがにひっかかった。
「おーい、包丁は駄目だろ。銃刀法違反になんない?」
返事次第では自分が刺されるかもという恐怖は不思議となかった。
中年の男性が職務質問を受ける可能性はどれぐらいなのか、お巡りさんに鞄の中身を確認された時問題にならないのか。
「こういうものがあってだね。」
と、おもむろに三十センチほどの細い円柱状の黒いナイロンのバッグを取り出したしんぶん氏はその中身を取り出した。中には折りたたまれた金属の棒が入っていた。
「折りたたみ式の釣り竿。これがあれば釣った魚を捌くのに使うんですと言い訳が出来る。まぁダミーだけどな。」
すごく誇らしげに語ってはいるが、さっきから殺すだの刺し違えるだの話が物騒だ、でも最後までは聞く約束である。
「まぁ、こっちにいるのも疲れた。田舎で自分ちの分の米でも作るよ。家庭内暴力をずっと受けていてさ、よくいうだろ?虐待を受けた子供は自分が親になった時にも虐待をしてしまうとか。どこまで本当だかわからないが、俺は信じた。」
しんぶん氏が勢いよく水を飲む。二リットルのペットボトルを持ち歩いていれば重いわけだ。
「だから俺は一生独り身でいようと決めたんだ。格好をつけてるんじゃない。自分の家庭を作っても負の連鎖になるのが嫌だった、というより怖かったんだ。だから俺は恋人というものを作ったことがない。大学時代一度コンパに参加させられたことがあったが、一言も口を利かず酒を飲んでるだけで終わった。だが、ある女が俺のことを気に入ったらしく、しつこく連絡してきた。その頃は俺にも男友達という奴がいたんだな、そいつが気を回して俺の連絡先をその女に渡したんだと。一回直接会ってくれればもう連絡しないとか言ってきたから二人きりで会うことにしたんだ。若い男だ、未練があったんだろうな、女ってもんに。二人で酒を飲んでホテルに行った。」
「どこまでやったの?」
「即物的な奴だな、黙って聞け。お恥ずかしながら勃たなかったんだ。何もせず文字通りご休憩しただけだった。酔っぱらってて今日は駄目だとか言ったと思う。女も思うところがあったんだろう。インポ野郎にはもう連絡してこなかった。」
「だからしんぶん氏はほぼ童貞である?」
それは完全に童貞なのではないだろうか、頭に?を浮かべたまま私は話を聞いていた。
「ここからが本題だ。七年前の入院の話だ。周囲の入院患者と俺は一切しゃべらないで過ごしていた。あいつらもこっちのことを怖がって避けていたし、誰とも仲良くするつもりもなかった。そんな時、俺を羽交い絞めにしてきた奴がいた。とんでもない力だった。その後スリーパーホールドをかけられた。看護師が止めに入るまでやめなかった。噂話によるとそいつは檻の部屋から脱走してナースステーションのカウンターに手を使わずに飛び乗ったというんだ。腰より高い位置にあるよな、あのカウンターは。静岡みかん、お前はわかるよな?あんなことができるのはそう状態にあったお前だけだ。何がみかんちゃんだ、裏ではアントニオ鈴木って呼んでたぞ、男どもはな。」
全てのしでかしは覚えている、しんぶん氏の発言は間違っていない。
檻のある個室に入っていた時、食事を運んでくる看護師のマークが甘かったので逃走してみたのは本当だ。もちろん病院の外には逃げられはしない。そう状態の時には火事場の馬鹿力のようなとてつもない運動能力が発揮されることがある。
屈強な男性看護師たちを振り切って、テレビを観ていたしんぶん氏の背中に飛びついたのだった。それはトライを決めたラガーマンのような気持ちではなかったか。しんぶん氏は羽交い絞め、と色気のない呼び方をしているが私の見解ではバックハグということにしたい。スリーパーホールドも力の加減が問題でただただ抱きついただけだ。あの時、彼の背中を無性に抱きしめたかった、それだけで危害を加えるつもりはなかった。初めて見た背中だったのに。
「で、俺は度肝を抜かれ、技をかけてきた奴が女だと気づいた。お前に恨まれる筋合いはないはずだよな。だって俺たちは初対面だったんだから。いつもの俺だったら激怒し憤怒し激高し病院内はとんでもないことになっていただろう。でも俺は技をかけてきた女を憎めなかった。その後すぐ檻の部屋から解放病棟にやってきたお前は俺にやたらしつこく話しかけてきた。ほとんど無視してやったのにお前は懲りない。いつもにこにこして、ここの麻婆茄子美味しくないですねとかくだらないことを報告してきた。そこで、変な奴認定して様子を見ることにしたんだ。お前は覚えているか知らんがオセロをやったな。お前がやりましょうよと誘ってきたから、こてんぱんにやっつけてやろうとした。それなのにだ、お前はゲームを開始して二分ほどで逃亡しやがった。あの段階で投了ってことはないだろう。俺をからかったのか?」
違う。薬の副作用のアカシジアが出てしまったのだ。足がそわそわして一定の場所に落ち着ていられなくなったのでオセロ対戦現場から移動せざるをえなかったのだ。私だってオセロしたかった。
「でだ、俺に散々絡んできたはずのお前は退院する時どうした?何の挨拶もなくいつの間にか消えやがった。俺はお前が退院してしばらくはあいつどうしたんだろうと心配したんだぞ。おい静岡みかん、俺をもてあそんだのか。それ以来お前のことを時々思い出してあの変な女はどこで何をしているのだろうと考えてた。七年かけてやっとお前にたどり着いた。」
私が退院する頃、薬でそう状態はすっかり収まり鬱になっていて、しんぶん氏に嫌われていると思いこみ声をかけられなかった。そのまま退院した、もちろん声はかけたかったが、邪険に扱われたら怖いと感じたのだ。
入院中、私が彼にしつこく接していたのはしんぶん氏が好きだったからだ。この人のそばにいたいというシンプルな願いがあった。あれから七年、しんぶん氏はどうしているだろうと振り返ることはあった。でも入院中だけの縁だ、連絡先も分からない、情弱の私にはどうしようもなかった。
「しんぶん氏、もてあそんだんじゃないよ。条件が重なっただけ。私にとってあの入院は貴重な体験だった、しんぶん氏がいてくれて楽しかったよ、例え冷たくあしらわれようと。」
「冷たくしようとしたんじゃなくて優しくする方法がわからなかったんだよ。考えてみれば俺は人生で女に優しくしたことはなかったから。」
しんぶん氏は大きく息を吸った。
「ここからが本題だ。静岡みかん、俺に童貞を捨てさせてくれないか。いや、ささげるって言った方がいいな。お前が最後、そこで打ち止めだ。あんな風に接してきた女はお前が初めてだ。二人で雪を見たろ。あの年は雪が多かったよな。お前ははしゃいでたな、俺は子供の頃のことを思い出していたよ。」
馬鹿にされているとも失礼だとも感じなかった。一度は好きになった男だ。この体を見せるのはかなり勇気がいるがアントニオ鈴木、人生で一度ぐらい誰かの役に立ってみてもいいんじゃないか。
「条件があるの。その髪色は黒に戻して!あと眼鏡もかけること!私はメガネ男子が好きなのよ!」
私の声が思ったより大きかったのか、鳩たちが一斉に飛び立った。
ロート製薬!としんぶん氏が叫んだ。

私はラブホテルが好きだ。
笑っちゃうようなぺらぺらの病衣のようなガウンも、異様に硬いバスタオルも、マドンナと書かれたコンドームも、馬鹿でかいベットも、鍵のかからないトイレも何もかもうちの家にはない。
ホテル代は折半することにした。
あのしんぶん氏の懇願の日から一週間経ち、今日という日を迎えた。

「まずどうするよ。」
「何が?」
「まず何をすればいいのか、下界では。」
「体を触り合ったり?」
「お前慣れているのか、こういうこと。」
「いや、普通じゃないかな。あんまり好きじゃないけどね、してこなかったわけじゃないから、あ、でも最近はしてないんだよ。」
「俺なんて四十年以上していない、お初なんだぞ。手荒くするなよ、大切に失いたい。」
「坊や、いらっしゃいとかそんな風にはリードできないよ。」
「望んでいない、そういうのは。」
さっきから一時間以上、二人で服を着たままベッドの上でどのように事を進めるのか話し合っている。とっとシャワーを浴びて臨戦態勢に入るのがベストではないかと私が提案する。どちらが先に風呂場を使うかじゃんけんで決めて私が先にシャワーを浴びることになった。
ベッドのある部屋から浴室が丸見えになりこの土偶・縄文のビーナスのような体型を極力しんぶん氏に見せたくなかったので、シャワーの温度をマックスにし、ガラスを曇らせることに成功した。紳士協定でお互いの風呂は覗かないことと取り決めたのではあるがうっかり目に入る危険性がある。
相手の見えない角度でさっと裸の自分の体に向き合う。下着の跡が肌に赤く残っていることに気づき、だから勝負下着はいやなんだと独り言を言いそうになる。ナイロン製でワイヤーは食い込むしパンツの面積は小さすぎる。前に下着をつけた時より体が膨らんでいることを素直に認める。
体のチェックをしているところを男に見られたくはない。私はしょぼい丸いスポンジにボディソープを取るとざっくり全身に泡を行き渡らせようと努力したがどうしても背中にスポンジが届かない。急いで右手左手交互に肩側から背中に手を回し洗い上げると溜息をついた。
化粧が落ちないよう顔には水滴が落ちないように気を使う。
シャワーを浴びたら、のんびりせず体の水滴も拭ききらないでガウンを着用する。
やっぱり病衣に似ている、入院するたび着て心電図を図りそのまま拘束されたっけか。
「おーい、お待たせ。」
「お前、何その服。入院患者かよ。」
「だって仕方ないじゃない。シャワー浴びて湿気があるから元の服着たら気持ち悪いもの。」
「でもそれ、全然色気ないぞ。」
「贅沢言うなよ、私はこれを着る。しんぶん氏はどうするの。パンツ一枚でいるの?」
「お前は俺にどんな格好をしてほしいんだよ、それによる。」
「なに余裕かましてんの?コスプレの趣味はあいにくないんだよね。」
「シャワー浴びてきます。」
しんぶん氏を待つ間、自分の脇の毛がきちんと処理できているか指先で確認する。
永久脱毛に縁のない人生だったな。
私はベッドに寝転びながら昨日抜いた二本の白髪について考える。色々なところが衰えていく。
結局、しんぶん氏もガウンを着てベッドに近寄ってきた。突如、自分が異様に緊張していることを喉の乾きで知った。もう打ち止め。そんな童貞を大切なラスイチをどうやって奪えと言うんだ。
脂肪のおかげで胸はたわわだがその分腹も出ている。こんな身体、好きだった人に見せたくない、七年前だったらまだよかったのに。
「おい何だ、イタイイタイ。」
「やっぱり怖い、無理!」
私はしんぶん氏の背中にしがみつくと赤子のようにギャンギャン泣いた。
「子泣き爺のまねか、阿呆。怖かったなら最初に言えばよかったのに。断ったってよかったのに。」
枕元のひらひらのレースが施されたケースがつけられたボックスティッシュをこちらによこした。
しばらくしんぶん氏はなすがまま私を泣かせておいた。
が、突然私の方へ振り返り自分のガウンを脱ぎ捨て素っ裸になって仁王立ちした。
「ほら、俺も無理、やっぱり役立たずだわ。」
私は何だかおかしくなって泣くのを止めた。
「四十超えて勃ちが悪いんだよな。」
「薬の影響かも知れないよ。」
「せっかくだから風呂でも入ろうぜ。変なボタンがいっぱい付いてて、あれどうなってるんだろうな。静岡みかんには腰元として背中を流させてやろう。」
「ごめん、私はいい。寝るよ、もう十二時だし。寝ないの危ないからさ。」
「お前最初からする気なかっただろ。」
「違う、違う、緊張して頓服飲んじゃったら眠くなっちゃったんだよ。」
「極限状態まで自分を追い込むなよ。じゃあ寝よう、俺はまだ起きてるから。お前いつも何時に寝てんの?」
「十時。」
「はや。ちゃんと寝ないと危ないんだろ、馬鹿だなぁ、もう寝ろ寝ろ。」
本当は風呂場で汚い背中を見られるのが怖かった。若い頃から背中ににきび跡があって露出の高い洋服が着られない。ガウンがはだけてしまったらと怖かった。
自分には怖いものだらけだ、今日の夜眠れなそうなのも怖いなぁ。この気持ちの高ぶりも。
ベッドには特殊なシーツがセットされていて、どこに体を差し込んだらいいのかわからない。じたばたしながらやっと体の置き場所を決めて瞼を閉じても興奮してしまって眠れない。
頓服なんて飲んでいない。そもそも寝る前の薬をここに持ってきていない。
飲んだら眠ってしまう、そうしたら彼の相手ができない。もし、しんぶん氏が万全だったらどうだっただろう。そもそも私に魅力がないから。
頭の中を様々な考えが去来する。
また泣いてしまいそうになるのを必死でこらえても、私の肩は小刻みに震えだす。
「おい、またか、どうした。」
後ろからしんぶん氏が抱きしめてきた。
「女を抱きしめて寝ることも最初で最後の体験だ。お前ふっくらしてパンみたいだな。女と男は大分違う質感なんだな。あの病院のスリーパーホールドな、あのまま落ちてもいいと思ったりもした。またかけるか?」
私は首を横に振る。
「童貞奪えなくてごめんなさい。」
「お役に立てんでごめんなさい。」
私を抱きしめたまま自分より高い体温の持ち主はすぅすぅと寝息を立て始めた。秒で寝るなよ。
何が俺はまだ起きてる、だ。
でも、でもでも、何年かぶりに睡眠薬なしでも眠れそう。朝にはパンパンになっていそうな瞼を静かに閉じた。






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