小説「邂逅」椎名麟三 感想


「落語に、こんな話があるの、知ってますか。ある男がさくらんぼうを食べているとき、種子を一緒にのみ込んでしまったんです。その種子は、身体のなかで芽を出し、だんだん生長して、頭をつき抜けて大木に育ったのですね。木のまわりに池も出来、春になると、人々がその桜の花の下に集って、花見の宴をはるさわぎなんです。しかしその男は、とどのつまり、いろいろの理由から世をはかなんで、自分の頭の上に出来ている池にとびこんで自殺してしまったのですが、どういう風にして自殺したと思いますか。紐を縫ったとき裏がえしにするでしょう。そのような仕方で自殺したのです。面白いじゃありませんか。僕は、人間はみんなそうなんだ、と思うんですよ。めいめい自分の頭のなかへとび込んで死んでしまうんです。それが人間の不幸の原因じゃないかと思いますよ」

167ページ

著者 椎名麟三

 登場人物は皆ある憂鬱を抱えています。それは非常に重苦しく、自分でも持てあましているにも関わらず捨て去ることのできないものなのです。まるで生きていくためにはその重苦しさがなくてはならないというように、絶えずそれをポケットに入れたままにして、ときどきそれが確かにあるか取り出して確かめているふうなのです。そしてその憂鬱はいつでも死の匂いがします。事実、ある男は致死量をこえる薬品を酒と一緒に服用して、翌朝にはベッドの上で冷たくなるのです。そして彼の妹が死んでいる彼の顔をぴしゃりとハエたたきで殴るのですが、まったくその叩く音にこの小説全体にただようニヒリズムが集約されているように感じます。
 生きるということは終着としての死というものへ常に傾斜していますが、しかしその流れに爪を突き立てて少しでも抗おうとすることをこの小説では自由というのです。もちろん死という運命からは逃れられませんが、それへ少しでも抵抗することができる、あるいはそう意思することが人間には許されているということが自覚されるときに人は自らを、死というものから、また死にとらわれている生きるということからも自由だと感じるのです。
 けい子という登場人物がとりわけ私には印象深く思います。けい子は自分が死ぬのにうってつけのある川を見つけます。誰にも秘密にしている死ぬためのその場所が、けい子にとって生きるための唯一の慰めとなるのです。しかし実際にその川に身を投じたとき、死ぬにはその川は浅すぎて冷たすぎるのでした。彼女にとって神聖化されたその川での自殺の失敗は、生きることもできなければ死ぬこともできないという挫折を彼女に残します。それは生きられないから死のうとするのに、その自殺すら果たせないのならば、もはや白痴のような生き方しかないのだと思わせるのです。生きることからも死ぬことからも自由になれないけい子に私は痛いほどの同情を感じます。冷たい川で温かい小便を垂らすけい子。しかし世界の誰もその彼女を知ることはないし、知ろうとすることもないでしょう。
 人間はそれでも生きていかねばならない。そんな人間に安志はユーモアを感じて微笑するのです。絶望的に重い人間の歩みの一歩一歩に愛を感じて微笑するのです。その愛やユーモアが、生きることの厳しさにゆるめが与えられる。それが自由をもとめてあがく人間にほんの少しの希望が感じられるのです。

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