小説「暗黒天使と小悪魔」田中英光 感想


「ねえ、リル、人間はみんな死ぬんだね。正義だとか恋だとか、理想だとか堕落だとかいっても、どんな風に生きていたって、どうせ死ぬんだ。死んでからの栄誉、次の時代のみんなの幸福、そんなものより、生きている、この俺のしあわせが大切さ。ねえ、リル、下にいって、またコップ酒を四杯ほど、持ってきておくれ」

209ページ

著者 田中英光

 リルとは娼婦です。主人公がヤケになって声をかけた立ちんぼで、抱いたあとに酔った勢いで女にこんなふうにくだを巻いて、翌日にはあっさり別れて、今度は別の女に興味がいくのです。酔っぱらいの戯言にすぎないようなこの台詞は、しかし酔っぱらいの私に強く響きました。たしかに、自分が死んでしまってからでは、与えられるどのようなしあわせも栄誉もあり得ない。酔ってたくさんの失敗をしてきた私には、諦観とともにその実感を得たのです。誤解されたくないのですが、この台詞の意味を、他人を蹴落としてでも自分を優先するということではなく、いずれは確実に死ぬ自分一人を幸福にできない人間が、他人をしあわせにはできないのだというふうに私は理解したのです。二度と会うことのない女との刹那的な邂逅と悦楽、つまりそうした女との交接に自らの存在を確かめようとする方法は、やはり酒に自分を見つけようとすることと同じように、最後には取り返しのつかない後悔と、持てあます吐き気だけが残るのでしょう。
 田中英光は睡眠薬と酒で死にました。正直にいうと、ある時期まで自殺というものにすこしヒロイックなものを感じていました。しかしあることをきっかけにそんな立派なものではないのだと思わせる、非常に強いショックな出来事があったのです。それはともかく、最悪の二日酔いよりも逃れたい苦しみのために田中英光は太宰の墓前で死にました。彼を死に至らしめた、女でも酒でも癒せない人間の生きる苦しみ、それを知らない人間を私は信用しません。

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